【小説的思考塾vol.7 内容説明】

今回(4/17)の思考塾は、ハイデガーの〈存在〉を中心に話そうと思います。これは、小説とは、〈自分〉を書くものなのか、〈世界〉を書くものなのか?という話でもあります。

〈世界〉とは、念のため確認しておくと、「世界情勢」のことではありません。〈私〉を存在せしめている、時間的・空間的な〈何ものか〉のことで、だからそれは最も近いし、最も遠い。
〈世界〉と聞いて、そのような〈何ものか〉を迷わずに思い浮かべる人は、社会の多数派ではないことは間違いない。(そもそも、芸術や哲学は社会の多数派とは関係ない。)

「私が生きてるこの世界は何なのか?」
「私と世界はどのような関係があるのか?」
という疑問つまり〈問い〉を子ども時代から持っている人は確実にいて、〈世界への問い〉が、そういう人の芸術(絵画・音楽・映画・演劇・ダンス・小説・詩etc)の関心や好き嫌いを決めているし、普段の考えや行動の選択を決めてもいる。

「ハイデガーの思想は、私たちの生き方の導きになる」
と、入門的に言う人がいるけれど、ハイデガーは、いわゆる生き方は眼中にない。それは、精神分析が人を社会生活に適応させることを目的としていないのと同じです。
ハイデガーはひたすら、〈世界〉に向き合って生きることを求め、それは概念を学習することでなく、思想の運用であり、実践です。

「〈存在〉とは××××である」
という辞書的な定義の仕方はハイデガーが真っ先に切り捨てる思考法で、
ブルース・リーのDon’t think.Feel.や、
『マトリックス』のモーフィアスの「道を知ってることと歩くことは違う」という捉え方こそ、ハイデガーの思考に近い。……もっとも、ハイデガーの場合Don’t think.でなく、Think&Feel.だけど。
ハイデガーは、ただ考えるのでなく、情動を動員して考えることを求めます。その情動とは、悲しい・嬉しいなどの限定的で小ぢんまりした心情のことでなく、怒りや喜びが未分化の激しい状態で、それが世界からの働きかけを受け止め、世界からの働きかけに共振するのです。
ハイデガーはだから、世界は〈対象〉ではないと言い、思考している自分は〈主体〉ではないと言うのです。〈主体ー対象〉という、近代的思考の前提である二分法を否定するのです。〈存在〉はそこに起こる活動です。

あんまり沢山書いても訳わからなくなるので、とりあえずの要点。
1】小説とは〈私〉を書くものでなく、〈世界〉を書くものである。
2】心情的な着地をさせるのでなく、〈世界〉に送り返す。
3】自分が死んだら世界なんか、あってもなくても関係ない、という思いをどうすれば乗り越えられるのか。
4】小説は〈悩み〉を書くものでなく、〈問い〉(疑問)を書くものだ。

……これらの逆が、いまのほとんどの表現がしていることです(「私を見て」「私の悲痛な叫びを聞いて」……)。だから、小説的思考塾は「手っ取り早く小説を書けるようになる講座」ではありません。
小説、広く芸術は、まとまりのいい作品を仕上げることでなく、先行する作品が世界の諸相を現前させた成果を仰ぎ見て、自分もそのようなものを作りたいと思って、それに向かうものなのです。