ハイデガーは〈道具存在〉ということをよく言う。
道具は慣れるほど手と一体化して、それを使っている意識が消えて、叩く、削る、彫るetcの目的に意識が集中する。
画家の絵筆、音楽家の楽器、作家の言葉……芸術家はそれを自分の身体や意識同然に使いこなすーーというのが、理想なんだが、現代芸術において、これは古い。というか、この理想は現実を反映していない。
(実際はもう1つ重要な思索が絡むのだが、とりあえずそういうことで)
それで、現代芸術は表現の道具・メディア・技法・場所etcの少なくとも1つに「思い通りにいかないもの」を入れることになった。
これは表現において、工夫の次元ではない。ハイデガーの考えた究極の芸術作品に対する反省(異論)の結果だ。
(小説はこの意識がとても低いのだ)