「死は無である」は人が〈個〉として完結していることを前提にしている。
人は個として完結しているわけではない。
人は多様な力が流れ込んで人となっている。
だから人は、空間の中でも時間の中でも本来、孤立していない。
「死は無である」「死は無になることだ」「死んだらおしまいだ」は、
「しょせん死ぬときは独りなのだ」という考えともパラレルな関係にある。
その人生は、フーコーの言ったパノプティコン(一望監視システムの独房)に置かれているようなものだ。
「死んだらおしまいだ」「しょせん死ぬときは独りだ」は、田舎で独力で成功した、マッチョなオヤジがいかにも言いそうな台詞だ。
それは一見、文句のつけようのない事実と見える所がタチが悪い。
しかし、肝心なことが抜け落ちているーーということは、誰もが感じている。