古井由吉追悼文 身内に鼓動する思念(「群像」2020年5月号)

ニ月二十六日の朝方見た夢は、佐伯一麦の追悼記事をカラーグラビアみたいなページを開いて文字を読む、というより印刷された風景の方を私は見ていた。風景は天橋立(あまのはしだて、ルビ)か手前に松が大きく描かれているセザンヌの風景画だった。私としては珍しくカラーの夢だったはずだ。もっと珍しいのは追悼記事とはいえ、つきあいが皆無といってもいい佐伯一麦の夢だったことだ。いや、私はその記事を読む人を肩越しに覗き込んでいたのだったか…………。
 その夢の意味は翌日の古井由吉の訃報によって明かされた。私にとっての小島信夫が、佐伯一麦にとっての古井由吉だからだ。古井さんはもう二十年くらい前になると思うが誰かとの対談で、
「人は言語のネットワークで繋がっているんですよ」
 と言った。だから超自然的現象はある。もっと平たく言えば、しばらく会っていない人とも共振しうるし、過去の人の思考を身内に感じることもできる、と。「 」の外は私の創作かもしれない。「 」の中も、このとおりの言葉ではない。ともかく私は新聞で発表される前日の朝に、古井さんか佐伯さんから知らせを受け取っていた。さらにその一週間後くらいに佐伯さんの芸術院選奨受賞の記事を新聞で目にすることになって(私はふだんそういう記事は見つけない)、これまでも含んでいたのかと、私はもう一度感心した。
 私の古井由吉への関心の中心は、いわゆる神秘主義と書くこと・考えることとの、なんと言えばいいのか、関わり、縺れ合いのようなことだ。神秘主義・神秘体験を理屈として認め、書物としてもそれに関わるものをいろいろ読んでいるが、自分自身は、人に語れるほどに鮮やかな体験を持たない、というのが古井由吉と神秘主義との関係で、それは誰もがそうだ。
「理屈と書物では有るが、体験は無い」
「有る」と言うことも「無い」と言うことも簡単なのが神秘体験だ。神秘体験は、有るのでも無いのでもない。有ると無いの二分法を無効にしたところに神秘体験はある。
 私は雑に「神秘体験」と書いているが、古井由吉の文章ではそれらは、「いわくいいがたいもの」「なんとも言いようのないもの」「不穏な気配」「幽けきもの」「幽明分かちがたいもの」……それらとして掠める。
 古井由吉の文章は知らないうちにそこに迷い込む。地の文、引用、独白、口にされた言葉、それらの区別は不明瞭で、その言葉の連なりは、文学の手法としての〈意識の流れ〉よりずっと身内に鼓動する意識に近いと感じる。
 古井由吉の文章は、まったく調子がよくなく、むしろ一語一語を親指で粘土に押し込むように書かれているが、しかし気がつくと〈はやい〉。思考の展開が自然であるがゆえの〈はやさ〉だ。表面的な調子のよさでなく、この思考の展開が、散文のテンポ・調子・文体だ。丁寧に伝えようとする文章のもたもたした感じがない。読み手の理解の器に降りていかない。
 それは書き手としての読み手への信頼だ。自分の立場から離れようとしない読者への共感の振る舞いを持って自分の能力のなさを隠す、つまり読者に媚びる、それがない。それゆえ関心は世間に埋没しない。人に対する視線がそのまま抽象になってゆく。
 何が小説であるか。小説であるとはどういうことか。古井由吉の文章ほどそれを感じさせる文章はない。古井作品が紛れもなく小説である理由はどこにあるのか。形あるものや例証可能なものによってしか理解しない人には、エッセイとしか映らないだろう。
 別の対談で、古井さんは、
「「私」があったんだ」
 と言った。これもまたうろ覚えの記憶で、気がつけば、古井さんの発言を記憶した二つの対談の、相手すら私は覚えていない。……その対談で古井さんは、いろいろ主語をやってみたが、最後の最後に「「私」があることに気がついた」という風にたしか言っていた。古井由吉の書く「私」は最初から知っていた「私」でなく、最後にぬっと私の後ろに立って私を見ていた「私」だ。
 その「私」が思念の隘路に迷い込む。隘路とは空間をイメージしたら狭いが、思念においては隘路こそが涯てもない。

 私は古井さんとは個人的なおつきあいはないに等しかったが、芥川賞受賞の夜のこと、受賞者がその晩行くことになっているという銀座のバーに文藝春秋の役員に連れられて行くと、選考委員でただひとり、古井さんがいらした。かつては、選考委員も何人も集まったのだろう、そういう時代は終わりつつあった。古井さんは、
「選考委員がひとりもいないというのは淋しいじゃないですか」
 と、私に仰った。古井さんとはその後、通夜やお別れの会でもお目にかかった。大家となった人でそういう場にいる人は古井さんだけだった。芥川賞の選考では古井さんは私を推さなかった。「礼」の持つ意味の重さを推測する。思念の隘路への入り口は「礼」なのだと、古井さんは考えていらしたのではないか。
 古井さんは新聞連載をしなかった。あれは書くフォームを崩す。目線も低くなる。小説は毎月だいたい決まった分量を、こつこつ書くことがすべてなのだ。古井さんは小説家としての生き方の手本を示してくださったと思う。