古井由吉の書いたものを解説するとは、解説する自分、さらには解説という行為そのものが馬鹿みたいな気分にどんどん浸食される。古井由吉の作品のフランス語訳をしているヴェロニック・ベランさんとは偶然にも知り合いで、ペランさんが古井由吉の心酔者であることなどまったく知らない頃、私は彼女とベケットの話で盛り上がった。と言っても二人で「好きだ」「好きだ」「おもしろい」「おもしろい」と言い合っただけみたいなものだが、ペランさんは「ベケットの文章は読んでいて気持ちがいい」と言う。彼女がそう言う言い方は、断固たるというような強さはまったくないがとにかく吹っ切れていて、もうそれでじゅうぶん、これ以上何も言うことがないと響く。
それから二、三年してまた会ったときにはペランさんはベケットでなく古井由吉の話をして、やっぱり、「古井さんの文章は読んでいて気持ちがいい」と言った。
「でも、何が起こってるんだかわからないところがけっこうあるでしょ?」
「わからなくてもいいんです。古井さんの文章は読んでるだけでいいんです」
という会話がたぶんつづいた。古井由吉は書くのを一日で原稿用紙二枚にしておく、三枚になると物語の定型に掬われる、ということを誰かとの対談で言っていた。読む方はしかしそんなにゆっくり読めない。読者がよくわからない原因の一つはその速さの違いにあるのではないか。
古井由吉の小説の中で、操ぐ、燥ぐ、騒ぐ、笑う、陽気であること、鏡舌であること、意気軒昂であること、これらがいい意味で出てくることはない。「眉雨」では、表題作の眉雨では韻文、「叫女」では叫び、「道なりに」では合戦での突如の舞い、これら騒がしさが不吉なことの前兆のように書かれる。私はこの二年ちょっとのあいだに家の猫が二匹死んだ。二十二歳四ヵ月のオスと二十一歳四ヵ月のメスだったからどちらも天寿を全うした、人間でいえば老衰にちかい死に方だが、二匹とも死が近づくと休みなく歩き回った。静かに横たわって眠ることができず、もうじゅうぶんには上がらない足をほとんど引きずりながら四時間も六時間も八時間も家の中をぐるぐる歩きつづける。水の容器の前で一度立ち止まり顔を近づけてみるが飲むことができない。食べ物も食べることができないが、それはこちらが押さえつけ指で口を開けさせて強制的に食べさせる。
そういう日が何日つづいただろうか、オスの方は癌だったから最期の時間経過が速く、せいぜい一週間だったが、メスの方はもっとずっと老衰とか多臓器不全にちかい状態だったから時間経過が遅く、ひと月くらいは毎日のように六時間も八時間もうろうろ歩きつづけ、ようやく体を横たえても眠るわけでなくずうっと私たちの方を見ていた。私たちは自分では気がついていないが、おそらく体の中の強い力によって無意味に体が動き回るのを抑え込んでいる。座禅などまさに動き回りの対極だが、実のある、という言い方が可能ならば、実のある思考や内省は無音意味に動きつづけようとする体を抑え込む力がないと生まれてこないのではないか。『槿』で「操」「燥」「笑」という字に出会うたびに私はまだ記憶が生々しいうちの猫の死が近い日々を思い出した。操·燥はざわめくこと、体が制御不能状態にあること、今回『槿』を読み直すまでそんな連想をしたことはなかったし、これはきっと私には古井由吉に固有のことだと思う。そうでなければ困る。
『槿』の出版年を見ると一九八三年だ。そのときすでに私は学生でなく勤め人だったがどうしても学生時代に読んだという思いが修正されないのは、『槿』を読む自分が覚束無かったから、その覚束無さが際立ったから経験した年齢よりずっと年少としか思えないのではないか。古井由吉をそれまでまったく読んだことがなかったわけではないが、短篇のいくつかだけであり、ストーリーや起伏に乏しく難解な作家あるいは取っ掛かりを見つけにくい作家というイメージしかなく、これは当時の大学生かその周辺の若者としては平均的な理解ではなかったかと思うが、その私がごく当然のように『槿』を読み出したのはそれがどこか一部の方面で熱烈に支持されていたからではないか。
私は『槿』を間違いなく読んだのだがほとんど何も憶えていない。はじめのうちはするする読んでいた憶えがあるが、だんだん手探りというか読むこちらは灰暗い明かりだけになり自分の居場所がわからなくなっていった憶えがないわけではない、憶えだからアテにならないが。しかし
独特な重いにおいが家の内にあって、口もとへ運んだコップの縁からもつかのまにおった。
(本巻二五二頁)
という終わり近くにあらわれる一文はしっかり記憶というより体に刻み込まれているのだから、私は「植」を読んだのは間違いない。
ストーリーや起伏に乏しく……と、さっき書いたが、『槿』にはいま読めばきりきりと絞り上げるような、じわじわとにじり寄るような展開があり、それは起伏以外の何物でもない。しかし、
暗がりにうずくまって水を食り飲む男の、像を身体に通いあわせて、その存在を、まじわったではないか。
(本巻二八四頁)
の一文を今回読むまで私は知らなかったのだから、読んだといっても何も読んだことにならない。
この一文に出会うずっと前、半分を過ぎたあたりから私は読みながらさかんに、ムージルの『愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑」という、古井由吉が一九六八年に訳し、八七年に改訳して岩波文庫に入った二つの短い小説のことを思い出すようになった。この二作は「合一」という表題で一冊の本として出版されたそうだ。この文庫本を磯崎憲一郎がひじょうに好きで、私は『槿』の途中から、この解説(?)は私でなく磯崎憲一郎にふさわしいのではないかと何度も思ったのだが、私はこの岩波文庫をじつは読了していない。何度か読み出したものの頭に入らないのだ。と思って本棚からそれを取ると、何ヵ所もページが折ってある。私は読んでいたのか。
だいたい読んでもいない小説をさかんに思い出すというのも理屈に合わないが、『特性のない男」も「三人の女」も私は読んでいる。ムージルは好きだ。しかし『愛の完成』と『静かなヴェロニカの誘惑」は、短く切り詰めたせいか思弁的で抽象度が高いため……とそこまでイメージがあるのだから私はやはり読んだのか。
とにかく解説を書く手掛かりを得られればと思って『愛の完成』を読み出すと、するする頭に入ってくる。こんなにおもしろい小説をどうして私は退屈なのか難解なのか、それに類する何らかの理由で読み通さなかったと思っていたのか。何しろページはあちこち折ってある。
これはもう「合一」ということでしかないのだが、この文庫本は記憶どおり思弁的だった。ムージルでもこの二作は際立っているのではないか。「特性のない男」で私はそこが白眉だと思うのだが、第二巻(松頼社)でクラリセが殺人を犯したモースブルッガーという狂人を妄想するところは、それがもうクラリセの妄想なのか殺人犯の内面なのかわからなくなる。ひと言で「混乱」と言うが、古井由吉の場合、「融合」するために起こる混乱ではないか。差し伸べられたその手が自分の手なのか相手の手なのかわからない、というような。
たぶん私の記憶に間違いはないはずだが、かつて「文体」という文芸誌があり、古井由吉と後藤明生はその編集同人で、小島信夫から原稿をもらってくるが字が判読できないそのとき、後藤明生は明快な解釈をしたが私(古井由吉)は暖味模糊となる解釈ばかりした、と古井氏が書いていたが、そのエッセイを読んだとき私は逆ではないか? と思った。しかし「合一」「融合」を介在させるとわかる。後藤明生はいったん区切ったその後の入れ換りのタイプの混乱であるのに対して、古井由吉は区切りを入れない。
ところがこれはおそらく古井由吉の全作品、ひときわ難解な『仮往生伝試文』にも共通する特徴だが、古井由吉の文章は思弁的でも抽象的でもない。漫然とした読後感ではとても抽象的な文章を読んだという印象なのだが、実際に読めば空間や場所はいちいち具体的に書いてある。が、その具体性が明確な像を結ばない。これは杉尾と萱島國子の過去にかかわる決定的な出来事が起きた場面だが、
今度は記憶の、像らしきものが杉尾の内で動いて、白い手が見えてきた。門のくぐり戸の細く開いた隙間から差し出されて、手首を男の手に驚擢みにされていた。
(本巻二二六-二二七頁)
からその章の終わりまで、はじめて読んだとき私は少女が失禁したことすらもしかしたら理解できなかったのではないか。どうしても先へ先へと読み進んでしまう読者に、古井由吉の書く空間あるいは場面は立ち止まり立ち返り何度も読むことを要請する。そうして何度もそこを読み、そのうちについにそのとき何が起こりどこに誰がいたのか、正確な(単一の)像が結ばれるのかというと、やっぱり結ばないんじゃないか。私の読解力に問題があるのでなければそういうことだ。記憶とは本来そういうもののはずだが、書くとなると人は次々につじつま合わせをしはじめ、夢を書くときもそうだがかなり全体が見渡しやすいものになるし、私たちは子どもの頃からそのように書く訓練ばかりを受けてきたので、 意識せずには母国語の外に出られないように、意識しても見渡しやすく書く外に出られるものではないが、記憶も夢も多少なりとも、いやもっとずっと、統合失調症じみているのだから書くことはそれに近づくことでなければならないのではないか。ことのついでに言うなら、解説もまた見渡すものである必要があるのか?「わかっている」という地点から見る小説の、「わかった」部分こそがつまらないのではないか。全体像の見渡しがたさが動きとなるのだとすれば、全体を見渡す視点は動きを殺すことになる。
解説的なことを言うなら、『槿』は、性、エロスがキイワードになっていて、私の手元に今ある福武文庫にも講談社文芸文庫にも惹句にそれが使われている。最初に読んだ単行本は古井由吉の中でもとりわけ装頓が好きな本で惜しかったが、スペースがないので文庫本発売と同時に古本屋に出した。だから八三年に読んだとき私はどこのページを折ったのか調べられない。
私は性とかエロスが苦手というか、文章に書かれたそれらに基本的に反応しない。その私が今回『槿』にかなりのめり込んで読んだのだから、『槿』の中心にあるのは性やエロスではないのではないか。八三年に読んだときにもそういう記憶はまったくないし、じつは八八年発売の福武文庫も飛び飛びでページが折ってあり、古井由吉の作品の中で私にとって一番印象深いというか縁があるのがこの小説だから、解説らしいことは書けなくても自分とのその縁みたいなことぐらいは書けると思って私はこの巻の解説を引き受けたのだが、一度として性やエロスとして読んでいない。と言っても何も記憶のない読書なんだからいい加減なものだ。
惹句には一度も書かれていない(と思う)が、この小説には一種ミステリー小説の趣がある。謎ははっきりと提示されていないから、謎解きが書かれているところを読んで謎があったことにはじめて気づくミステリー小説のようなものだが、
・萱島國子はなぜ杉尾に犯されたと言い張るのか?
・精神の病いで入院している石山はなぜ杉尾の見舞いにこだわるのか?
おもにこの二つだ。明確な謎として書かれてはいないが、杉尾はこの二つをずうっと不可解と感じている。
それは終わり間近の石山の言葉によってかなり明快に説明される。しかし、この小説にはもっと大きな謎あるいは不可解さがあり、それは井手伊子の欲望であり萱島國子の過去へのこだわりだ。殺人事件があったと言い張る飲み屋の女将も不可解だ。
それへの答えというより応答は、『愛の完成』と『静かなヴェロニカの誘惑』に書かれている。今はこの二作に限定しておくが、より大きくは「特性のない男」つまりムージル全般なのではないか。
どの感情というのでもなく、あらゆる感情の根抵が揺れ動いた。他人の住居の中を、嫌悪を覚えながら、通り抜けていくのに似ていた。嫌悪を覚えながらも、ごくおもむろにどんな心地 で彼らは、こんなところで幸福にしていられるのかしら、とすでに想像が萌しかける。
(『愛の完成』、岩波文庫五七頁)
その瞬間またしても風が起り、彼女の感情は風の中へひろがり、いかつい抵抗や憎悪のすべてから身を解き放って、それを捨て去るともなくいとも柔らかなもののように吸いこんだ。あげくにはいかにも孤独な驚きだけがあとにのこり、ヴェロニカはそれを感じながら、その中にいわば身を置きのこした。すると、あたりのものすべては予感におののいた。今まで暗い霧のように彼女の人生の上にかかっていた不透明なものがいきなり動きだして、長いこと探し求めていた物たちの姿かたちが、ヴェールに映しだされて浮きあがってはまた消えていくかに見えた。
(『静かなヴェロニカの誘惑』、同一四四頁)
訳はもちろん古井由吉。主人公たちはこのような思念や予感に無防備に身を任せる。ここでも私はうちの猫が六時間も八時間も家の中を動き回った姿を想像してしまうのだが死んだのが一月十七日のことで十二月半ばあたりから寒気が繰り返し南下してきては二、三日かかって北に戻ってゆく、特に寒気が南下してくる大気の入れ換わりのときがうろうろ動き回りが激しくなり、猫はほとんど完全に外界と自分を隔て、生体を一定の状態に保つ恒常性【読み:ホメオスタシス】を失っていた。『眉雨』にも早々に「しかし空気が肌に粘り、奥歯から後頭部のほうへまた、隆り出し前の雲の動きを思わせる、疼きがある」(本巻三一二頁)という一節があるが、気圧の変化は、私はそのために気圧計を買ったのだが、室内にいても気温の変化のように緩和することができず、寒気が降りてくると気圧は見る見る下がり、その変化が猫の体を貫く。
井手伊子も萱島國子も欲望や思念に身を任せることによって、自分を自分たらしめようとしている。自分を自分たらしめている厚いと思い込んでいる殻はじつは薄い被膜でしかない。私はここに感動した。
古井由吉の書くものは、狂人の見る風景にちかいとも言えるし、神秘主義者の信仰にちかいとも言える。私は狂人·狂気·神秘主義それらの既成の概念に分類するより、予感に向かって書いているというのがふさわしいと思う。予感を書いているのでなく、書くことそれ自体が予感であること。『眉雨』に「現在をいやが上にも逼迫させることによって、過去を招き寄せる。なかった過去まで寄せて、濃い覚えに煮つめる」(本巻三一四頁)とあるように、 過去さえも予感とする。だから、短篇集『眉雨』には、『道なりに』『中山坂』のように奇識にちかいある意味完成度の高いものもあるが、その完成度ゆえに印象が安定してしまい、『眉雨』『叫女』『秋の日』くらいの、読後に「?」がだいぶ残るものの方が古井由吉のおもしろさが出ていると思う。
『古井由吉自撰作品 五 槿/眉雨』はこちら。