このたびは、個人出版の『寓話』をご購入くださり、ありがとうございます。
『寓話』は小島信夫さんの創作時期としては『別れる理由』『私の作家遍歴』という二つの大長編につぐ時期にあたり、『美濃』のあと『菅野満子の手紙』と平行して、文芸誌に連載された作品です。
『別れる理由』『私の作家遍歴』の二作は一九八〇年代初頭に大評判になったのですが、その評判の実質は「日本人作家としては度外れた長さの作品を書いた」というような、内容とほとんど関係のないもので、その長大さにみんなが懲りてしまったであろうために(?)、引き続く『美濃』『菅野満子の手紙』『寓話』の三作はほとんど黙殺にちかい状態になってしまいました。しかし、この三作は小島夫作品の頂点であると言っても過言ではないと思います。
私の知るかぎりこの三作を論じた評論を誰も書いていませんが、実際この三作は既成の評論のスタイルないし思考法で論じることが不可能にちかく、小島信夫作品の頂点たるにふさわしく「ただ読む」ことがすべてのような小説です。
今回、個人出版するにあたり十人強の友人が一人平均5章(原稿用紙約百枚)ずつに分担して、パソコンに文字入力してくれました。一冊の本をコピーしてそれを分けたために、入力した友人たちは全員、入力の時点では『寓話』の全体を通読していない状態だったのですが、どの5章を担当した人も、『寓話』の文章をとても面白いと感じ、退屈であるはずの入力作業を楽しんでやることができました。
『寓話』は目的地を持たないまま数年にわたって書き続けられたもので、全体を俯瞰して理解することは不可能だろうと思います。森の中で道に迷ったら、そこから抜け出そうと考えずに、いま自分がいる場所を取り囲んでいる木を眺めて楽しめばいい。そういう風に楽しんでいるうちに全体の流れというよりも“うねり”がきっと体の中に感じられてきて、それこそが『寓話』体験になるのだと思います。
国語の授業では作品を一度通読して、そのあとで全体を見渡して、構造なり主題なりを考えるのが読書だという風に教わり、評論もそのような思考の上で書かれるわけですが、小島信夫作品は作品を読んでいる最中にその作品から離れて、自分自身の実人生の経験や他の読書の記憶に自由に連想を広げていく不定形な力を内包させていると私は思います。読書というのは本当はすべてそういうもので、「それについて語らなければならない」などとあらたまって考えなければ、みんな読みながら自由に他のことに連想を広げているはずで、いままでみんなが語るのを遠慮してきた”本当のところ”を小説自身が読み通されるために必要としているーーと、こう言葉で書くと複雑に響きかねませんが、こういう読書は実際は最も当たり前で自然なことだと思います。
もともと『寓話』の個人出版を考えた理由は、現在私が「新潮」に連載している「小説をめぐって」かあるいは他のところかで『寓話』についてまとまったことを書きたいと思ったからです。しかし書いても元の小説が読めない状態だったら意味がないと思い、『寓話』について書く前に『寓話』が読める状態を作ろうと考えたのですが、こうして完成した本を前にすると、『寓話』について書く以上のことをしたという気持ちになっています。
みなさんには、あまり律儀に一気に通読しようなどと思わず、数年かけて文芸誌に連載されたのと同じような時間の長さの中で、気の向くままに読んでいただきたいと思います(余計なお世話ですが)。
二〇〇六年三月 保坂和志
