【ツイートまとめ】小説的思考塾vol.20+山本伊等 『想像の犠牲』を語り合う

小説的思考塾vol.20
4月19日17:00〜19:00(対面、リモート両方可)

@巣鴨RYOZANPARK
関連ツイートまとめ

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伊等君(作・演出)との対話では稽古の進め方や、戯曲を書いていた間のことetc.上演までのプロセスもたくさん話したいと思います。

演劇だけでなく、小説、絵画、写真、音楽、ダンス……すべて
完成品として鑑賞するのでなく、制作のプロセスに思考を延ばしていくこと
完成品として、評価して、採点する態度は、その人を〈創る喜び〉〈思考する喜び〉から遠ざけ……そして傍観者のまま、置き去りにされるのです

正しく鑑賞しようなんて思わず、勝手に見て聞いて想像する。
感想文でなく連想文。
感想を持つより、連想を広げる!
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4/5
『想像の犠牲』の稽古を見てきました。
稽古は全体でなく、場(部分)をやるわけですが、どの場もこの芝居は興味が尽きない。
その仕組みはきっと何時間でも話しきれない。

台詞の全てが、周到に計算され、何重にも折り畳まれ、2度3度聞いても、明瞭な意味が取れないーーしかしそこに、気持ちは誘惑されるように、引き回される。
そして、テキストの複雑さと別に、舞台として、視覚的には単純に変で、思考と視覚がいい感じに撹乱される。

これはしかし、私(保坂和志)の小説の思考の運動との共通点もあるのです。
私の小説に影響を受けたという人は、小説の語りの緩さは真似るけれど、それを支える思考の速さ・複雑さは気づいてない。
山本伊等の戯曲の話をすることは、小説を書く(読む)別の視点を拓くことでもあるのです。
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4/5
小説的思考塾を視聴する動機の多くは
「いま書いている小説が、いいのかどうなのか、わからなくなったから(行き詰まったから)」
では、ないかと推測しますが、これははっきり言って、根本的に間違っています

小説的思考塾は、「いいのかどうか、わからない」ような小説からきっぱり離れて、1行目から全く新しい小説を書くための、思考の刷新が目的です。

磯崎憲一郎は、それまでのもさもさした小説を捨てて、或るとき突然、語り口も激変、仏陀のいる風景を描きました。

『想像の犠牲』の山本伊等も、思考する私、創作する私の中で起こる運動の複雑さに気がついたのです。

今回はとりわけ、創作というのは、まず自分が一変するという話でもあります
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4/6
先日『想像の犠牲』の稽古を見ながら、私は正確な内容はほぼ理解してないことに気がついた最初のうちは動揺したが、見ているうちちに、やっぱりそれが正しい(自然な)見方だったと思った。

というのは、ともかくこの芝居の台詞は複雑で、耳から聞いた歌の歌詞がわかる程度しか分からない(A)。
そして歌詞が分からなくても歌を好きになるように目の前の芝居が好きになる(B)。
(A)(B)両方があることがこの芝居のキモで、人は小説や芝居どころか思想書だって、言ってることがろくに分からなくても(A)それをいいと思う(B)。

だから、この芝居は、本当に歌を聞くような感じで、
台詞は
否定なのに肯定であり否定でもあり、
他人の経験なのに自分の経験であり、
目の前のあなたは私なので、
みたいな世界観が、ほば全編の台詞で繰り返し言われる効果で、歌を聞くようにこの奇妙さが自然に滲み入ってくるから、楽しい。
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4/7(この投稿はなぜか消えている)
(伊等くんから来たメールをここに投稿)
『想像の犠牲』は、東京公演は写真撮影に加えて上演中に戯曲読んでも良いとこっそり書いてるんですが
とにかくどんどんみんなポリコレと「配慮」のもとで許可されてることしか行動しないようになってるじゃないですか。

演劇のお客さんも顕著にそういう傾向があって、どんどんルールを守ってお利口になってる。こういうのが戦争に向けて利用されていくし、知ることに対するある種の野蛮さが欠けていくのが、演劇というジャンルの衰退なんだと実感します。
そのことを、『想像の犠牲』の一番最初に土井に言わせているんです。
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4/8(この投稿はなぜか消えている)
山本伊等は去年、あろうことかお花見に参加しないで芝居の戯曲を書いていた。
そんなに視野を狭めるのは、戯曲にも小説にもよくない! と思ったが、9ヶ月後に京都で『想像の犠牲』を観て、納得した。

『想像の犠牲』の台詞は、いちいち、どれ1つとして、まともな日本語文法に則ってない。
動詞の時制が狂っていたり、私とあなたが入れ替わっていたり、〈いま・ここ〉がすでに過去の繰り返しであったり未来の予兆であったり……役者の発話と世界の関係がぐねりと捻れ続けて、ほどけようとしない。
私は『残響』と『カンバセイション・ピース』を書いた時の心境を思い出した。日常語で語れない視点を自分の中に作って、それを定着させるにはすごく時間がかかった。
創作には何度か、そういうふうに自分を追い込む必要がある、という話もしたい。
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4/9(この投稿はなぜか消えている)
私(保坂和志)が、カフカ、ベケット、小島信夫を信奉していることはみんな知っていると思う。
山本伊等は大学院でベケットを研究した(院だから偉いとか関係ない)

ベケットを仰ぎ見る2人が、一方は小説を書き、一方は戯曲を書いた。

ベケット『伴侶』にある
「すべてを自分の伴侶として想像する、想像された、想像するもの。」
という一文から保坂は『話という演算』を書いて、伊等は『想像の犠牲』を書いた。

同じく『伴侶』の
「すべてが、いつも終わっており、そして途上であり、終わりがない。」
この一文は『プレーンソング』以来の私の小説の世界観であり、『想像の犠牲』の世界観でいんある。
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4/12
映画『天気の子』を(何年遅れかで)見たとき、若い人たちが「犠牲になっている」と感じていることに驚いた。
映画『サクリファイス』も私はそこに〈犠牲〉の問いかけがあるとは思わなかった。

現在、日本の小説は、差別、偏見、貧困etc社会的で目に見えやすい題材ばかり書かれているが、山本伊等はそれらの全体を覆うものが〈犠牲〉なんだと、思弁的な問いに昇華させた。

しかもこれこそ、文学として普遍的な問いだ。

山本伊等がどういう変遷(思考、経験、気分……等の変遷)を辿って〈犠牲〉が或る意味、世界を語る概念の中心になったのか?——そこをじっくり訊こうと思う。

この〈犠牲〉は、社会的現象を遥かに超えた、現代文学全般のキー概念になると思う。
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4/15
群像5月号『鉄の胡蝶』81回から抜粋
<想像の犠牲>という芝居は、山本伊等が戯曲を書いて、演出も彼がした、彼の演出の仕方は、役者とのやりとりを通じて形になっていくもので、怒鳴ったり、灰皿投げつけたりという荒っぽさはまったくない、
その<想像の犠牲>が先々月も書いたように、

「歴史とは、<かつて起こらなかった出来事>と<未だ起こっていない出来事>の集積」

だということが、言葉による、こういう命題として提示されるのでなく、舞台で発される言葉や身ぶり手ぶりなど、舞台を含めた空間全体で感じられるようになっている、

それも芝居の全体を通してゆっくりと、そのような理解が醸成されるのでなく、ひじょうに言葉の多いよく作り込まれたチラシを事前に読んでおくと、

きっと芝居がはじまって数分のうちにそれがわかるというか、そういう世界でこの芝居が上演されていることがわかる、私はそうだった、私はほとんどいきなりきた。
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4/16
歴史を手際よく整理する類いの知は小鳥が言葉をしゃべらないと決めてかかるようなレベルであり、これはまさに現代か近代の観念論ではないか。
鳥がじゅうぶんな知性をもっていることが子ども時代からの小鳥との生活で自明だった山本伊等は、文字だけで伝わるような単純な思考形態をしていないらしく繊細にして汎空間的な演出によって、歴史が<かつて起らなかった出来事>と<未だ起こっていない出来事>の集積であることを舞台に顕現させた、かつ、戯曲として書かれた文字列も伝聞や推量の複雑な折り畳まりとなっていて、戯曲の言葉は台詞としてそれを発する役者の配置によって意味が変わったり捻れたりする
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4/16
作・演出の山本伊等と話します。 『想像の犠牲』は去年12月の京都の上演時、観た人に強い印象を残しました

この芝居は、日本で演劇批評やジャーナリズムが機能していたら『ゴドーを待ちながら』以来の衝撃となりうる芝居だと思います

私は京都での舞台を観ている最中、この芝居の初演に立ち会えたことに興奮しつつも、
山本伊等と一緒に成長してゆけるだけの時間が自分には残されていないだろうことを思い、人生の不可逆性を痛感しました。
この芝居がいわゆる物語なしに観客の関心を最初から最後まで掻き立て続けるのは、どうしてなのか?
ーーおもにそれについて、言葉の抽象性から舞台上の具体性(現前性)まで、思いっきり話し合おうと思います。
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4/16
大事な前提(大前提)を言い忘れてました。
私は『プレーンソング』を書く以前、70年代後半から80年代を通じて、演劇と舞踏が大好きだったのです。

【特に暗黒舞踏は、山海塾の旗揚げから観ていたし、白虎社は東京事務所の社長?まで(成り行きで)していたほどでした。】

私の小説の特徴は
3人以上が同じ空間にいることで、それは映画よりも、演劇と舞踏から来ていたのです。
人物の空間内での配置(居場所)に対して意識的で、喋り方が人それぞれ違っている。しかも喋っていない人も何をしているか書いてある(←これ大事)

『想像の犠牲』の稽古を見て、
戯曲だけでは想像できない演劇空間のダイナミズムを堪能しながら、私は、
「自分は他の人たちよりずっと言葉の意味に注意を聞いていない」ことを再認識した。
保坂和志の小説は、意味やストーリーでなく、人物の個性と、その空間なんだなあと思いました。
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4/16
繰り返し言ってますが、小説しか視界にない人は小説は書けません。(書けたとしても、みんなが書いてるのと同じ小説)

文芸評論を読む人は多いと思うけど、それを読むより演劇・映画・舞踏……etc文字だけによらない表現の形式を観たり聞いたりして、
文字だけではできないこと、
文字にしかできないこと、
文字だけの表現との共通点……
などなどを考えることが、その人だけの文章になったり、世界の感触になったりする。

文章を書くとき、人それぞれ、いろいろなイメージだったり、体が何かに向かう感じだったり、人から見られてる感じだったり、
体や頭の中でいろいろな運動が起こって、それが文章になる。(喋るときの身振り手振りのようなものか)
演劇・舞踏・映画etcはその運動の源泉になると考えてもいい。