『残響』単行本時のあとがき

コーリング」と「残響」は同じ方法で書いてある。「コーリング」以前、ぼくは一人称の小説しか書いたことがなかったけれど、クラシック・バレエの舞台を観たときに突然、ある”感じ”が浮かび、それは一人称では書けないだろう種類の”感じ”だった。
舞台といってもプロではなくて素人の舞台だった。当時ぼくはまだ西武百貨店のコミュニティ・カレッジというカルチャー・センターで働いていて、そこのダンスやバレエの発表会の会場整理をしながらたまたまその舞台を観た。余芳美(よ・よしみ)振り付けの舞台で、十人ぐらいを一ユニットとするユニットが五つか六つ、直線的に動いたり、二重三重の同心円になったり、あくまでも個人でなくユニットがさまざまに変化していく構成で、一人一人はすべてのユニットを通じて、まったく同じ動作をする。足を前に上げるときは全員が前に上げ、横に振り出すときには全員が横に振り出す。しかし全体としてはとても変化に富んだ舞台になっていた。
それでぼくは、何人かの登場人物たちが、顔を洗ったり、食事をしたり、歩いたり………という日常の基本動作を蝶番のようにして、シーンが人物から人物へと移動していく話を書いてみたいと思い、そのようにして描かれる人物たちは、読まれるときにつながっているような印象になるのか、それとも一人一人の孤独ないし隔絶感が強まるような印象になるのか、知りたいと思った。
舞台を観たのは九三年二月のことで、「コーリング」のはじまりの「土井浩二が三年前に別れた美緒の夢の途中で目が覚めた朝、美緒はもちろん浩二の夢など見ていなかったし思い出しもしていなかった」という文は、それから二、三日のうちに書いたのだが、そのあとがまったくつづけられなかった。
ぼくはいつもプロットも何もなしに最初のセンテンスだけ書いてみて、それがいいと思えることはめったにないが、良ければつづきを二、三枚書き、それでダメならやめて、大丈夫そうだと思うとそれから先をつづけるというやり方なのだが、「コーリング」は最初のセンテンスをとても気に入ったにもかかわらず、本当にまったく一行も進められなかった。
そして放置したまま十ヵ月たち、正月になり、年賀状が届くと、その中の一通、田中暢子というぼくがとても好きだった女性からの年賀状の端っこに、「毎朝子どもを幼稚園まで送っていく道で、保坂さんによく似た人とスレ違うので、私は毎朝保坂さんのことを思い出しています。たまには私のことも思い出してくださいね」と書き添えてあって、これだと思ってつづき(といってもはじまりの二つ目のセンテンスから)を書くことにした。はじめに考えた日常の基本動作を蝶番としてつないでいく方法は、書くうちにわざとらしくなると思ったのでほとんど使わなかったが、何ヵ所かはそれを使ってある。
人物たちがつながっている印象になるのか隔絶された印象になるのかを知りたいという動機で書きはじめたくせに、「コーリング」の語り口はニュートラルな立場でなくて、隔絶されている印象をそこかしこで強調するような語り口になっていると思う。しかしその語り口のために人物たちが完全に隔絶されてしまったかといえば、そう断定しきることもできないようにも感じる。

「コーリング」のあと、もう一度同じやり方で書きたいと思いながら、考えがまとまらず、その間に「この人の閾(いき)」と『季節の記憶』を書いた。「残響」のアイデアもじつは一通のハガキだった。
田中麻里という女性が転職の挨拶状の余白に「コミュニティ・カレッジでご一緒した数ヵ月は、コンクリートに残された足跡の凹みのように私の心に残っています」と書いてあって、これがほぼそのまま使われることになった。「残響」の中ではこれが人間の心の過剰さとして出てくるが、本当はぼくは、このイメージの物質的な感じに感動した。それがほかのシチュエーションなんかをいろいろ考えているうちに、印象が逆になってしまった……。
そんなわけで、この一冊は田中暢子と田中麻里という二人の田中さんに助けられて出来上がった。この場を借りて二人にお礼を言います。
もう一つ、「残響」のきっかけになったのが、高野文子の「奥村さんのお茄子」
(マガジンハウス刊『棒がいっぽん』所収)というマンガだ。そのマンガのラストで、一九六八年六月六日の午後の、本当に特別なことは何もない情景ーーそこにいあわせた一人一人の考えていることとやっていることーーが、入れ子細工の箱を次々に広げていくようにズームアップされていく。「残響」の野瀬俊夫の軌道に対する疑問は、高野文子の描いたことの形を変えたものだ。
しかしこの小説は進みあぐねた。こんなに進まなかったのははじめてだった。
そのときもう一つ知ったのが装丁をお願いすることになった平野敬子さんの絵だった。JAGDA(日本グラフィックデザイナー協会)新人賞受賞作家作品展のポスターに描かれていた鉛筆画のその絵は、まずはじめはカットされた宝石のように見える。光沢があり硬くて重さもある。しかし、ずうっと見ているとその絵は宝石ではなく、ただ、鉛筆で描かれた直線と濃淡(=密度の差)だけのように見えてくる。
はじめに感じた光沢も強度も質感もすべて、視覚が馴れ親しんできた約束事でしかなかったように思えてくる………。しかし、そう思いはじめたときに絵は再び光沢や強度や質感を取り戻す。ぼくは「残響」をそういう印象にしたいと思った。
「コーリング」のはじめの動機(ないし疑問)だった、人物たちがつながっているのか隔絶されているのかということは、「残響」を書いているあいだもずっと考えていた。
人間は物質的反応の総体に《すぎない》のだろうし、音楽は空気の振動の連続に《すぎない》のかもしれないけれど、この言い方には多分に、刺激的なことを言って聞く人の人間観なり音楽観なりを揺さぶることで満足しているようなところがある。そんな言い方をしたら、文字は規則性をもった紙の染みにすぎないし、テレビは電気的に起こされた光による像にすぎない。それら自体が何か崇高なものを宿しているわけでは全然ない。
だからこういう考え方は、要素に還元していく方法の詐術として切り捨てることだってできるかもしれない。人間や世界は総体としてやっぱり何物かなのだという考えは、この要素への還元からはおそらく出てこない。しかしぼくは要素への還元がまったく無意味だとも思っていなくて、野瀬俊夫のように魅力を感じてもいる。もしかしたら、ここから何らかの答えが出てくるかもしれないとも思っている。
いずれにしても、ぼくはこれからも当分、人が生きて死ぬという有限性や孤独や隔絶感が救われることがあるのか、ということを考えながら書いていくのだと思う。

一九九七年四月