『冷血』と魂の問題
私はミステリーとか犯罪ものにはまったくと言っていいくらい関心がなく、数年前に偶然目にした書評で絶賛していて、「フォークナーの再来」とまでアメリカで言われているらしい『殺人容疑』——原題は『ヒマラヤ杉に降る雪』で、工藤夕貴が出演した映画にもなった——を読んだときも、登場人物の心の動きがあまりに月並で意外性や説明不能な飛躍や欠落がなくて、「つまらない」「フォークナーと全然似てないじゃないか」としか思わなかったが、トルーマン・カポーティ『冷血』は好きだ。心が深く揺さぶられた。
『冷血』がアメリカの田舎町で実際に起きた一家皆殺し事件に取材した小説で、その後のニュージャーナリズムの先駆となったというようなことは私がここで説明する必要はたぶんなくて、私自身はこの小説のどこまでが事実なのか全然わかっていないのだが、そんなことは問題でなく、私がこの小説を好きなのは、人間の魂とか霊性とかについて、考えざるをえなくさせるからだ。
事件を起こしたディック・ヒコックとペリー・スミスの二人組は、はじめのうちはディックがリーダーシップをとっていたように見えているが、小説が進むうちにすべてはペリーがやったことで、ディックは格好つけてただけのはったり屋にすぎなかったことがわかってきて、それと並行して顔も体つきも歪(いびつ)で子どものような身長しかないペリーが、生い立ちも歪で、感情も思考のありようも歪であることが描かれてゆく。
ペリーは子ども時代に両親の暴力と無関心の中で育ったが、知性は平均以上で、貧弱な教育的背景を考慮すれば、なかなか広範囲の知識を持っている(もっとも相棒のディックも知能は人並み以上なのだが)。しかし子ども時代のトラウマによって、世間に対して偏執狂的な猜疑心と不信感を抱いていて、他人にだまされたり、さげすまれたりしたと感じると、抑制のできない憤りが激発する。また「このような特徴に加えて、この人物はその思考作用の乱れの徴候を、軽微ながらも早期に示して」いて、「自分の思考を組み立てる能力に乏しく、自分の考えを精査もしくは要約することができないらしく、細かな部分に巻きこまれて、ときには方向を見失うこともあり、そして彼の思考のあるものは、“魔法”的な性質と、現実無視を反映することもある」(龍口直太郎訳・以下同)。
これは二人の弁護人として選ばれて、精神異常の犯罪者だけを収容する施設の責任者を二年間経験したこともある(しかしまだ二十八歳!)精神科医W・ミッチェル・ジョーンズ博士による見解だ。この小説の訳文の中には「トラウマ」という言葉はたぶん一度も使われていないけれど、ペリーについてトラウマが語られていることは明白で、『冷血』はニュージャーナリズムの先駆であるだけでなく、“トラウマもの”の先駆であるということにもなるのだが、『冷血』自体はいわゆる“トラウマもの”ではない。
『冷血』が“トラウマもの”という分類に入らないことは重要で、小説というのは簡単に分類されず、そのもの自体として生きつづける。二〇〇四年のいまの読み方をすれば『冷血』は“トラウマもの”かもしれないが、七〇年代頃には『冷血』はニュージャーナリズムの先駆であったわけで、時代が変わって“トラウマもの”が廃(すたれ)たときには『冷血』はまた別の読まれ方をされているのだ。
私にとっては『冷血』が、ニュージャーナリズムの先駆であることも“トラウマもの”に分類可能であることも関係なく、最初に書いたように、人間の魂や霊性を強く考えさせるところに圧倒的な価値がある。
ペリー・スミスは最後の三年間を独房の中で自画像や子どもたちの絵を描いて過ごしたが、ついに絞首刑が執行される。そのときのことが、ペリーの取調べをした刑事デューイーの視点からこういう風に書かれている。
「わたしは」と彼はいった、「こんなやり方で命を奪うなんてひどいと思っています。道徳的にも法律的にも、死刑に意味があるとは信じません。おそらくわたしにも貢献できる何かが、何かが——」彼の自信はぐらついた。内気さが彼の声をぼやけさせ、わずかに聞きとれるくらいの小声に変えた。「わたしのやったことをいまさら詫びても意味がないでしょう。そんなことは不適当ですらあるかもしれません。でも、わたしはお詫びします。すみませんでした」
階段、輪なわ、目のおおい——だが、目のおおいがかけられる前に、死刑囚は教誨師の差し伸ばした手のひらにチューインガムをパッと吐き棄てた。デューイーは目を閉じた。ロープが首にめり込むときのズシリという音を耳にするまで閉じていた。大半のアメリカの法律執行官と同様に、デューイーもまた、死刑は凶悪な犯罪を制止するものだとの確信を持っていた。そして、死刑にその効用があるとすれば、目前のそれこそまさに適例だと感じていた。最初の処刑のときには、彼は心をかき乱されなかった。ヒコックにはあまり好意を持っていなかったからである——デューイーにとって、彼は「空虚な価値のない暗闇から這い出てきた三流詐欺師」のように思われた。だが、スミスは——彼こそ殺人者であったのだが——別の反応を起させた。というのも、ペリーは一種の特性を備えていたからである——傷つきながらさまよい歩く動物が持っているような霊気、それを刑事は無視することができなかった。彼はラス・ヴェガスの警察本部の取調室でペリーと初めて出会ったときのことを思い出した——金属製の椅子に腰をおろした、こびとのような半おとな。彼のブーツをはいた小さな足は床に届きかねるくらいであった。そして今、目を開いたデューイーの視界に飛び込んできたのは、あのとき見たのと同じ、斜めにぶらさがった子供のような両足であった。(傍点、原訳文)
教誨師の手にチューインガムを吐き棄ててしまうくだりが事実だったとしたらできすぎだが、つまりペリー・スミスとはこういう人間で、本人の中で継続している意志と関係ないところで突発的にこういうことをしてしまう。彼の思考回路というか行動パターンは深いところで修復不可能なぐらい壊れているが、それでも「傷つきながらさまよい歩く動物が持っているような霊気」を持っている。
この小説には、軍隊時代のほとんど唯一といっていい「友人」のドン・カリヴァンという男が出てきて、彼は退役してから熱心なカトリック教徒になっている。私は『冷血』からの引用を書く前に一度、「この小説は一種の『罪と罰』であり、ペリー・スミスは極度に歪んだラスコーリニコフなのかもしれない」という一文を書いて、飛躍しすぎていると思って消したのだが、ドン・カリヴァンからの手紙がペリーに届くところから魂の問題が徐々に浮上してくるようになっているのだから、やっぱり『冷血』は二十世紀の『罪と罰』なのかもしれない。
もっとも私が『冷血』を読んだのは六、七年前のことで、それ自体ずいぶん遅れた『冷血』体験ではあるがそれはともかくとして、六、七年も前のことだから、読みながら私がどのあたりから魂や霊性について考えはじめていたかはっきりしなくて、もしかしたらこの死刑執行のところの「傷つきながらさまよい歩く動物が持っているような霊気」という箇所で霊性という考えが噴出しただけなのかもしれないが、そうだとしても噴出するだけのエネルギーはドン・カリヴァンからの手紙以来いろいろに貯えられていたことは間違いない。
あのときの気持ちを辿り直すと、霊性という考えが噴出して、もしかしたら私自身の人生ではじめて、心から「死刑には意味がない」ということを実感したのだ。ペリー・スミスにはチューインガムを吐き棄ててしまうような、自分で自分の行動を抑制できないところが確かにあるのだろうから刑務所の外に出すのは難しいとしても、刑務所の中で三年間絵を描きつづけたように、それから十年二十年と生きつづければ何かになることができたのではないかと思ったのだ。
何かになるとは、霊的で深遠な絵を描くようになるとか、宗教者になるとか、そういうことではない。まさにここに着目することこそが文学の仕事なのだが、「社会的にみて価値のある人間になる」ことではなく、「芸術・宗教・思想的観点から注目すべき人間になる」ことでもなく、ペリー・スミスという人間が「何かを社会に還元する」ことでもなく、ただペリー・スミスがペリー・スミスとして何かになる、つまり、幼年期に歪められた人格、感情、思考をペリー・スミスがペリー・スミスなりに克服して、真っ直ぐに育てられていたらそうなったであろうところのペリー・スミスになること、あるいは、幼年期に歪められた人間としてそれが完全には修復できなかったとしてもそれを相対化したといえる人格、感情、思考を作り上げること。
一度決定的に歪められた人格、感情、思考を克服したり修復したりするあり方について、どういう風に表現するのが適当なのか、私にはわからないからここまでしか書けないが、社会的にみてどうこうなのではなくて、ペリー・スミス個人として、人格を持って生きる機会を与えられた存在として、本当の自分を生きる時間を与えられるべきだということだ。
「えーっ、保坂さん!
保坂さんは前々回に『私の中には他者の言葉しかない』とかって、言ってたじゃないですかあ。
それがいきなり『本当の自分』ですかあ。
それって、矛盾してますよ。」
こういうことを言う人とは口をききたくない。というか、こういう議論に巻き込まれるときっと私は議論という枠の中では言い負かされてしまうだろう。私に言えることはただ、「おまえだってそれぐらいのことは本当はわかってんだよ。相手を言い負かしていい気になってて、おまえの人生に何があるんだよ。人生を見ろよ。人生を!」
ということぐらいだ。
宗教を信じられていた時代だったら簡単だった。しかし宗教への敬意は私自身が使っている言葉によって踏みにじられている。私たちが使っている言葉は全体として宗教への敬意が失なわれたモードに乗っているのだから、私が一言しゃべるたびに宗教から遠ざかるだろう。
論理的に体系立てて言うことはできないけれど、人間には崇高さを目指す本性がある。そこはもう直観を信じるしかない。
私の中にあるのは他者の言葉ばかりではあるけれど、その優劣を決めるメタレベルが私の中にはあって、私はそれに導かれる。ということは、他者の言葉の中にもメタレベルとして機能しうる言葉があるということだろうか。それとも他者の言葉に還元され尽くされない私がいるということだろうか。
言語哲学とか分析哲学では、すべての言葉や概念を等価な、いわば均一の記号として扱う傾向があり、それが中学生くらいの理屈一辺倒の思考様式にひどく魅力的に映るのだが、言葉が閉じた体系でなく、身体、生物としての人間、そして世界に起源を持つと考えてみれば、言葉には、凸−凹や重−軽や濃−薄がある。
たしかペリーがドン・カリヴァンの家の食事に招待されたときの回想だったと思うが、カリヴァンから「今夜の食事を神に感謝しよう」と言われたペリーが「いや、私は食事を作ってくれたあなたの奥さんに感謝する」という意味の答えを返してよこす。
こういう切り返しは気がきいていて面白いが、一つのパターンを身につければ簡単に使いこなすことができる。酒鬼薔薇聖斗のメッセージでも同じことなのだが、犯罪を犯す人間が使う思考は何通りもなく、出自を簡単に指し示すことができる。つまり限定された他者の言葉しか持っていない。それに対して「今夜の食事を神に感謝しよう」という言葉はたぶん限定された他者の言葉ではない。
あるいは、「神に感謝しよう」とカリヴァンが言うとき、カリヴァンの私は虚しくなっているのだが、ペリーの切り返しは私がここにいることの確認にしかなっていないということかもしれない。ペリーはここで「私に見えるものしか信じない」ということの宣言もしているのだが、信仰し、私を虚しくすることとは、「私の目に映るものがすべてではない」という立場を選ぶことでもあるだろう。
犯罪者はさしあたり自分に都合のいい他者の言葉だけを選ぶ。だから限定された他者の言葉しか彼の中にはない。つまり他者の言葉の群れが彼の中で構築されていないということで、「本当の自分」というのは他者の言葉が構築された状態を指すのかもしれない。——が、「他者の言葉」というたった一つの考えにとらわれて、こんなことをうだうだ書き並べるより、やっぱり「人間には崇高さを目指す本性がある」という直観で言い切った方が、ずっと広がりがある。
彼が彼として生きる
話を戻そう。『冷血』を読んで私は、死刑にしてしまったらペリー・スミスの魂や霊性がまっとうされずに終わってしまうと感じたのだ。役に立つ/立たない、価値がある/ない、社会に還元される/されない……これらのことは副次的なことで、何よりも大事なのは、彼が彼としての人生を生きることだ。刑務所の中でカリヴァンからの手紙をもらう以前、ペリーは彼としての人生を全然生きていない。ペリーは自分が考えているつもりでいろいろなことをやってきたわけだが、それは限定された他者の言葉に拠ったものであり、歪められた思考にさせられていただけであって、いまだペリーではなかったのだ。
これはすべての犯罪者にあてはまると私は思う。彼が彼として生きる機会を与えることが第一に必要なことで、更生や償いはそこからしか生まれないはずなのだ。
デビューして二、三年のあいだ、私はいろいろな人から「保坂さんも芥川賞を目指して書いているんですか」と訊かれた。その人たちはみんなあまりにも素朴で罪がないだけの人たちなのだが、そのつど私は、
「あんなもののために小説を書いてるわけじゃない」
と答えていた。とはいっても作品だけではろくに注目されず、一冊目の『プレーンソング』が絶版状態で、このままでは出す本が次々に絶版になり、経済的に大変で専業作家としてやっていけないから、もっと広く読まれる機会を与えられるために芥川賞はくれると言われたら喜んでもらう用意はいつでもできていたが、それでもやっぱり芥川賞をもらうために書いていたわけではなかった。
その後、芥川賞をもらい、谷崎賞をもらって今に至るわけだけれど、そうなったらなったで、「谷崎賞までとっちゃったらもうほしい賞はないでしょ。何を目指して書いているんですか」ということを、これもまた無邪気に言ってくる人がいるのだが、賞ほしさに小説を書いているわけではない。
そんなことではなくて、小説を書いていればそのあいだだけ開かれることがあるから書くのだ。「開かれる」「見える」「感じられる」……人によって言葉はそれぞれだろうが、小説を書いているときにだけ開かれるものがある。
私が「ペリー・スミスがペリー・スミスとして生きる」と感じるとき、私は自分が小説を書いているときに開かれるものをイメージしている。こういう風に小説について小説でない文章を書いているときもそれが全然開かれないわけではないけれど、小説を書いているときの方がずっと開かれる。
私は小説という表現形式を使って、その何かが開かれる感じを経験することに馴れすぎてしまっているのだけれど、小説から離れて、空を見ているときとか猫といるときとか夜布団に入って暗い空間を見ているときとか、いろいろなときに、それの弱いものは頭をよぎっていく。小説から離れているときのそれがまったくなかったら小説を書くことはできないだろう。
ペリー・スミスだけでないたぶんすべての犯罪者が、彼が彼として生きる機会を与えられることを言うために小説家としての自分の例を出したことで何だかかえって話が見えにくくなってしまったような気がしないでもないが、言いたかったことは、小説家が小説を書くのは文学賞がほしいからでも有名になりたいからでも社会的な発言権を得たいからでもなくて、小説を書くという行為そのものの中に価値があるからだということで、それはペリー・スミスが彼として生きることと質として同じことなんだということだ。
ペリー・スミスを死刑にさせずに、その先十年二十年と刑務所の中で生きたとして、前に書いたように、霊的で深遠な絵を描くようになったり、芸術・宗教・思想的に注目すべき人間になったりしたら、ドラマとしてはわかりやすいけれどそれは表面的なことでしかない。
そういえば一九五〇年代か六〇年代に作られたバート・ランカスター主演の映画で、独房に入れられた殺人犯が窓にくる鳥に餌付けすることから彼の中で変化が起こって、その後鳥類学者になった——というのがあったが、鳥類学者になったことが大事なのではなく、彼の閉ざされた頑(かたくな)な気持ちが変わっていったことが大事なのだ。鳥や花という自然がそこに介在していることもまたドラマをわかりやすくさせているが、それも注目しすぎてはいけないだろう——しかし、自然や子ども(ペリー・スミスは子どもの絵を描いていた)というのは、こういうときに世界への媒介項として、机や壁よりも実際に重要な働きをすることも確かではある。「自然」と「机」は人間にとって、均一な等価な記号ではないのだ。
話がそのつど逸れてしまって困るが、人間にとって必要なことは、肩書きや財産や社会的貢献ですらなくて、彼が彼として生きることなのだ。二七一ページに書いた「文学の仕事」というのを、話が入り組んでしまったために文脈をつかみそびれた人のためにあえて言うが、「文学の仕事」とは、「彼が彼として生きる」というこのイメージをしっかり作ることだ。それは確かにひとつの価値ではあるけれど、社会的価値などというときの「価値」の用法と関係ない価値だ。いまこれを書いている私には、言葉しか手段がないから、こうしてあれこれ言葉を並べているのだが、「彼が彼として生きる」ということは、やっぱり言葉では伝わらない。そういうものはたくさんある。
小説、音楽、絵画、彫刻、写真、芝居、映画……これらすべての表現形態は、手段として、文字とか音とか色とか線とか具体的なものしか使えないのだけれど、それを作る側にも受けとめる側にも具体性を超えたものが開かれ、それが開かれなければ何も生まれない。
その抽象性だけを強調してしまうと、安易な宗教性に陥ってしまうだろうし、作る側は作品にただ“念をこめる”わけでは全然なくて、具体的な作業をつづけてひたすら具体的な物を作るわけだけれど、その具体物によって具体性を超えたものを開こうとしている。そこはやっぱりどうしても言葉では伝わらないのだ。
『罪と罰』と『冷血』
『冷血』に話を戻すと、死刑が執行された引用箇所の、ディック・ヒコックに対する「空虚な価値のない暗闇から這い出てきた三流詐欺師」というデューイーの評価は、だいたいのところ作者カポーティ自身の評価でもあって、読者も途中からディックの方にはほとんど思い入れをしなくなってしまうのだが、これはおかしい。
ドラマを作る技術として、ペリーだけでなくディックにも読者がじゅうぶんな思い入れができるようにするのは難しいのかもしれないが、こういう風に作ってしまったら、結局、「最も穢れた者に最も聖なる精神が息づいている」という紋切型に回収されてしまう可能性もある。ペリーへの「傷つきながらさまよい歩く動物が持っているような霊気」という評価も“聖性”を連想させてしまう可能性があるし、カポーティ自身、もしかしたらその“聖性”を書きたかったのかもしれない。何しろカポーティ自身ものすごい目立ちたがり屋だったわけで、そういうタイプの人間のたわいもない欠点というか感受性の空白として、三流詐欺師程度の人間には関心が向かずに、ひたすら穢れた者に“聖性”を見つけたがったということも考えられないわけではないけれど、問題は“聖性”でなく彼が彼として生きることであって、“聖”でなくもっとずっと凡庸であっても魂は魂なのだ。
と、これはまあしかし『冷血』固有の、作品としての『冷血』の中で閉じられた欠点ということで済ませられる瑕(きず)にすぎないのだが、『冷血』が二十世紀の『罪と罰』なのではないかと考えてみたときに、とても厄介な問題がここで提示されている。
つまり、ラスコーリニコフは彼としての人生を生きることになるのに対して、ペリー・スミスの方はそうならなかったことだ。
『罪と罰』と比べたら『冷血』はそれほど重要な小説ではないかもしれない。百年たったら『冷血』は忘れられているかもしれない。しかしそれでも『冷血』を上回る犯罪小説はほとんど書かれていないのだし、『冷血』は『罪と罰』から現在に至る流れに位置してもいる。
『罪と罰』だって最初はドストエフスキーが新聞で見つけた小さな殺人事件の記事だったと言われている。そこからドストエフスキーは、神や魂や信仰や救済——私の言葉では「彼が彼として生きること」——の問題に向かうためにフィクションを作り出した。それに対してカポーティは事実につくことを選び、結局ペリー・スミスは救済されなかった。
小説家はただフィクションを書くのではなく、リアルだと思うことをフィクションにして書く。事実を、「事実だから」といって書いたとしてもリアルになるとは限らない。というかたいてい、あんまりリアルではない。だから『冷血』がもしすべて事実から取材して、極力事実について書かれているのだとしたら、フィクションを織り交ぜるよりも事実のままの方がリアルだと思ったから、カポーティはそうしたのだ。
小説家がリアルと感じるかどうか、言い換えると、読者がリアルと感じる小説になっているかどうか、これがまた言葉で説明するのがほとんど不可能な領域で、Aという小説で事実を使ってリアルになっているからといって、Bという小説で同じことをしてリアルになる保証はまったくない。
たとえば「エディプス・コンプレックス」というのがあって、これは図式的に考えれば息子と父親の関係だ。父親からの抑圧によって息子の感情や思考が歪められたり傷ができたりする。しかし、だからといって抑圧者を父親に設定すればいいというものではなく、母親が抑圧者を演じている可能性だってある。もしかしたら、生まれたばかりの赤ん坊が父親に対して抑圧者を演じることもあるかもしれない。
赤ん坊を抑圧者に設定した小説が書かれたとして、それがものすごく面白くて、深く考えさせられたとしたら、その小説は、事実と同等か事実以上にリアルなのだ。作品がそれほどの強さを持っている場合、優れた精神分析家が精密に読み解いてみれば、「赤ん坊こそが不在の父親を演じていた」という図式が浮上してくるだろう。しかし浮上してきたとしても、そんなことは小説家は知ったことではない。——エディプス・コンプレックスの図式を頭に叩き込んできっちりと図式化できる小説を書くのが小説家ではなく、鋭い読解者によって思いもかけないところでよく知っていた図式が浮上してくるような小説を書くのが小説家なのだ。何しろ『オイディプス王』の作者のソポクレスは「エディプス・コンプレックス」というフロイトの理論を知って『オイディプス王』を書いたわけではないのだから。
もっと単純なことを言えば、「淋しい」と書いてあれば淋しいと感じられるわけではない。「××ページと××ページと××ページで同じことが起こるが、これは永劫回帰を意味している」というような読み方をする人がいるけれど、それは小説でなく記号にすぎない。記号にすぎないとは、こういう書き方では「永劫回帰」という概念を知らない人には伝わらないということだ。だからもっと言えば、その程度の書き方を「永劫回帰」と感じる人がいるとしたら、その人は「永劫回帰」の本当の意味を知らないということでもある。小説というのは「永劫回帰」という言葉なんか知らない人が読んでも、「世界って時間の牢獄みたいなところじゃないか……。時間っていうのが、こんなに無表情だったら、おれたちはもう逃げ場がどこにもないじゃないか……」ということを感じさせるもので、ただ記号と化した図式や概念のやりとりではリアリティは生まれない。それは事実を書けばリアルな話になるわけではないのとまったく同じことだ。
小説は部分の集積ではない
小説というものを部分の集積だと考えている人がいるけれど、小説は部分の集積ではなくて何よりもまず全体として小説家に与えられる。もっと実感に則していうと、“全体”でなく“全体の予感”とか“全体の気配”とかそういう、おぼつかなくておぼろげな感じなのだが、それでもやっぱり全体であって、絶対に部分ではない。
これはもちろん、音楽、絵画、彫刻、映画……すべての表現にあてはまることで、私は小説家だから「小説」と言っているだけのことなのだが、小説とは、登場人物にはAからZまでのパターンがあって今回はその中から五人をピックアップすることにして、物語にはだいたい六通りあって今回はその中でこれこれのパターンを採用することにして、時代と場所の設定は人物と物語から考えると一九七〇年代前半の地方都市が最適だろう——という風に部分を積み上げていって出来上がるものではない。小説家本人としてもよくわかっていない何かが浮かんできて、それは小説家本人もまったく全体像をつかめてはいないのだけれど、それはなんだか動かしがたいものであって、人物も物語も時代も場所も選択の余地があるものではない。
構想の段階でも書きはじめてからでも、小説家は人物、物語、時代、場所……等をいろいろいじって書き直すわけだけれど、それは作り手の自由裁量として、「より面白くする」ためにいじったり置き換えたりしているのではなくて、「それしかない」と感じられるものが見えていないから、いじらざるをえないということなのだ。
実際の作業としては、一行一行文字を埋めていくことだから、部分の「積み上げ」をしているように見えてしまいがちだけれど、“全体”がさきにあったうえでの“部分”であって、それは、積み上げられたり足し算されたりしていく“部分”とは全然違う。だからたとえば、「この小説の人物は◎、物語は○、時代や場所の設定は◎、文章の技術は△——ゆえに総合評価としては○と◎の中間ぐらい」という風に評価できるようなものでは全然ない。
しかし、こういうものである小説を、「小説の書き方」として、本や授業で教えるとしたらどうなるだろう。教える側は小説を部分=要素に分解して、「文章の技術」「物語の作り方」……などと教えるしかたぶん方法はないだろう。そしてそんなことをつづけているうちに、教わる側だけでなく教える側も、小説というものが部分に分解可能であり、その部分の積み上げによって出来上がるという風に錯覚してしまう。
と、こんなことを考えているときに、いま読んでいたハイデガー『カントの純粋理性批判の現象学的解釈』(「ハイデッガー全集」第25巻、石井誠士、仲原孝、セヴェリン・ミュラー訳、創文社)で、こういうくだりに出会った。
(空間と時間は)それ自身においてひとつの全体をなしており、経験的な寄せ集めによって初めて出くわされるようなものではない。この全体はそれ自身「一なる」ものである、すなわちこの一性は、こうした多様の統一性の独自な根源的な様態である。この統一性は本有的に、あとから行なわれる統合の働きによる後発的な産物ではなく、全体は部分に先んじて、それ自身において一なのである。(傍点、原訳文)
私たちは、「机の上にワープロとペンがある」とか「この部屋の空気は澱んでいる」とか、特定の空間に焦点をあてて見たり感じたりするし、またそうすることしかできないのだが、そういう対象化された空間の根源に、対象化される以前の、分割不可能な空間があって、人間の直観は、そのことを理解していると言っているのだ。この、ハイデガーの言葉を借りると、私がそれ以前に「伝わりきらない……」と歯がゆい思いで書いていたものが、スパッときれいに言い切られるような気もするし、それと反対に、ハイデガーでもこういうまわりくどい言い方しかできないんだなあと思いもする。
これを踏まえて、同書に引用されているカントの文章を引用すると、全体は部分の集積ではないという話がもっとはっきりするだろう。
形而上学が示さなくてはならないことは、空間の表象をいかにしてもつかということであるが、幾何学が教えるのは、或る空間をいかに記述するかということである。すなわち、作図によらずに表象のうちでアプリオリに空間を現示することができるのはいかにしてかということである。形而上学においては、空間は一切の空間規定に先立って……与えられるがままに考察されるが、幾何学においては或る空間が作られるのである。形而上学においては空間は根源的であり、ひとつの(一なる)空間のみであるが、幾何学においては空間は派生的であり、そこには(多くの)諸空間がある。幾何学者は形而上学者の見解に調和しつつ、空間の根本表象に従って、つぎのことを諸空間について明言しなければならない。すなわち、諸空間は唯一の根源的空間の部分としてのみ思惟されうるものだ、ということである。(傍点、原訳文)
ここでは空間を対象化する思考の一例として幾何学が挙げられている。幾何学として対象化されてしまった空間は、私たちが漠然と「空間」と言っているときの空間ではないということだ。
いったん対象化されたものは、その思考形態の中でいくらでも緻密に記述することができるけれど、根源にあるものは対象として抜き出すことが不可能かひじょうに難しく、それそのものについて語ることができない。人間の記憶について考えるときにはコンピュータをモデルにして考えるのが便利で、すっきりした説明がしやすいが人間はそれだけではない。人間の視覚については、光学的な部分はカメラをモデルとして、見えたものを認識するプロセスはコンピュータの検索をモデルにして考えると説明しやすいが、もちろん人間はそれだけではない。
記憶、視覚、聴覚、身体の運動、会話……等々と、人間を部分に分解していくと人間について、いまではいろいろなことを説明できるけれど、人間はそれらの機能の集積ではなくて、人間にはそこで説明されていない何かがある。「何かがある」と言っても、それは意識とか精神とか魂という風に名指してしまったら「やっぱりそれではない」と感じられるであろう何かのことで、それが人間を人間たらしめている。
ハイデガーとカントが問題にしているのは、私の理解によれば、その、対象化される以前にある何かのことであって、ここで私が小説について書こうとしたものもまったく同じもののことだ。人物、物語、設定、文章……etc.と対象化された要素を積み上げても小説が出来上がるわけではない。
小説を小説たらしめている【何か】
私のこういう言い方は、その何かを感じることのできない人やそんなものを認めない人をきっと苛立たせる。
車の運転もパソコンの操作も、語学の教授法もコミュニケーション理論もカウンセリング理論も、医学も経済の理論もスポーツのトレーニング法も、すべて科学的な立場から共通言語を作り出して、送り手と受け手が同じ概念を持つことができるようになっているのが現代であって、ただひたすら「何か」「何か」とばかり言いつづけるのは、小説を秘教化する反動でしかない——というような反論があちこちから聞こえてきそうだ。
さっきのカントの孫引きになる引用文の中の「形而上学」ということを考えると、世の中には形而上学がない人が確かにいて、その人たちの比率は時代とともに上がっているだろう。科学的な記述の精度が上がれば上がるほど、それで説明され尽したという錯覚は大きくなり、形而上学のない人かそんなものを認めない人の発言力も増大する。しかしそれでもそういう人たちも形而上学があることを、意識している/いないに拘らず、わかっているのだと私は思う。形而上学があるということだけはわかっているからこそ、彼らには文学がいっそう秘教的なものに見えて、苛立ち、ヒステリックになって、「大学に文学部はもう必要ない」とか「文学の使命は終わった」とか理不尽な攻撃を仕掛けてくる。
もちろんこれは小説、文学にかぎらない芸術全般が置かれている状況だが、少し考えてみればわかる。教習所で車の運転を習うこととプロのレーシング・ドライバーになることは次元が違う話なのだ。プロのドライバーとして一流になるプロセスまで科学的に記述されているわけではない。トレーニング方法が格段に進歩したからといって、イチローや松井や松坂になれるメソッドが開発されたわけではない。医者だって神の手を持った医者からレントゲンを見ても患部を見つけられない医者まで、ピンからキリまでいる。小説だってヘボ医者や二軍で野球人生を終える選手のレベルにまで下げれば、いくらでも書き手を作ることぐらいできるが、そんなものみんな読みたいと思っていない。
「違いますよ、保坂さん。文学部がいらないと言われてるのは、単純に文学が流行らなくなって志願者が減ったからですよ。
文学の使命は終わったっていうのは、ヘボ医者のレベルの小説の話じゃなくて、最良の文学でも社会的に影響力を持たなくなったっていうことですよ。
形而上学とか秘教とか、そんな話じゃあ全然ないですよ」
たしかにそういうことなんだろうが、それは現象の表面のことであって、その根底には形而上学や言葉にして伝えられない何かへの敬意の下落がある。
「でもそれだったらですよ、形而上学や文学も社会とか時代の要素のひとつだっていうことを、自分の側から言ってることになりませんか?
ていうか、社会の価値観の枠の外にあるものなんてひとつもないんだから、社会が全体として形而上学へのリスペクトをなくしてるとしたら、形而上学の内側から『おれをリスペクトしろ』って、いくら言ったってダメってことじゃないですか。
ビル・ゲイツとか経団連の会長とか——そんな人の名前なんか知りませんけど——とにかく、形而上学の外にいて、なおかつ社会の中で発言権を持ってる人が『形而上学は必要だ』って言わないかぎり、もう一度浮上する目はないじゃないですか」
「何故わたしは、いま口をはさんできているこの声の主を、年下に設定してるんだろう?」
「はあッ?」
「何故、この声の主は年長者ではないんだろう?」
「はあッ?」
私はこの声の主がフィクションだと言いたいのではない。この声の主はもちろん、具体的な肉体を持っているわけではないけれど、だからといって私がいまここで作り出したただのフィクションではない。前回書いた数学や歴史の一般向けの入門書の「一般」が最大公約数という意味での実体であり、「批評的な目」という小説の読み方が実体であるという意味で、この声もまた実体なのだ。
「はあッ」としか答えることのできない彼は、自分が肉体を持った存在でないことに動揺したかもしれないが、ここで私自身の疑問なのはあくまでも、この声が男であり、年下に設定されていることの方だ。
「あなたは生意気なことを言う、年下の男の子が好きなのよ」
と、私の妻なら言うだろうが、それだけが理由でもないだろう。この声が年下の男に設定されている理由は私がいまこれを書いているリアリティに関わっている問題で、単純なようでそれほど単純ではないのではないか。書き手にとってのリアリティというのは、本人にはうまく説明のつかないものなのだ。
そんなことはともかく、形而上学というものが確かにあって、小説を小説たらしめている何か、人間を人間たらしめている何かを、そういうことに無関心な人から見て全然説明しようとしていないように見えるこういう説明の仕方が、無関心な人たちを苛立たせ、彼らの過度の攻撃性を誘発していることは確かだと思う。対象化されて記述可能な領域が広がれば広がるほど彼らの攻撃は力を増す、というか自信を深める。私は対象化されて記述可能な領域が広がること自体に異を唱えているわけではなく、「それでも記述されないこと、対象化されないことがあるのだ」と言っているのだ。
この考え方が社会の中で力をなくしていくことについては、歓迎はしないけれど、文学の外に出て何かしようとは思わない。外に出てしまったら終わりなんじゃないかと思うからだ。長い目で見たときに、文学や形而上学が沈みゆく船だったとしても、中にいなければしょうがないじゃないかと思う。
哲学をマンガでわかりやすく解説したり、名作文学のあらすじを読めるようにしたりすることが、初心者のための入口となって、将来それに没入する人を生む助けとなるという考えがあることは知っているけれど、そういうものに変形した時点で肝心なものが消えているのだから役には立たないと私は思う。
文学者や哲学者が社会的な発言をするのもじつはこの裏返しで、発言が与えられた場そのものに文学も形而上学もない。せいぜい「社会的な地位や収入で測ることのできないものがあるのだ」という注意を喚起するのが関の山で、「ペリー・スミスがただペリー・スミスとして生きる」ということを、新聞記事程度のスペースで伝えられるわけがない。どう書いても読者は、自分が知っている範囲の「価値」や「意味」に回収してしまうだろう。
長い歴史の中で、文学者や哲学者が社会で一定の役割を果たしたこともあったけれど、それで文学や哲学が理解されていたわけではないし、まして、小説を書いているときに小説家の中で起こっている思考様式がそれ以外の人たちに広がったりしたことはない。毎回毎回、何かひとつを書こうとして私の書くことは遠々とまわり道をしてしまわざるをえないのだが、私がこの連載で書きたいのは、小説家の思考様式や小説を小説たらしめている何かということだけだ。——しかし、それを伝えることを妨げるものがいろいろあるからいつもこうなってしまう。
『罪と罰』と『冷血』(続)
話を『罪と罰』と『冷血』の違いに戻す。
ラスコーリニコフは救われたのに、ペリー・スミスは救われなかった。十九世紀の半ばに書かれた『罪と罰』では、小説は登場人物と読者に光が射してくるその方角を示すものだったけれど、百年後に書かれた『冷血』ではもう光が見えなくなっている。キリスト教の演じている役割も、作品全体に関わるところから作品の一要素に落ちている。
カポーティが『冷血』をペリー・スミスの救済で終わらせなかった理由は、事実としてそうだったからでなく、救済されたら『罪と罰』の二番煎じになってしまうからでもない。二十世紀を生きる小説家であるカポーティが、これがリアルだと思ったからこういう形になった。逆に言えば、ペリー・スミスが救済されてしまったら嘘臭いと思ったから救済されなかった。
これが二十世紀の小説に起こった大きな変化だ。こんなことは私が言わなくてもみんなが知っていることだけれど、私が考えているのは、リアリティを失なわないでなおかつ救済されるように小説が書けないのかということだ。
『冷血』が事実に取材して、細部にまでわたって事実を書いていくことが、小説家トルーマン・カポーティのリアリティを基準にした判断の結果であるということは、小説家という媒介を経て、事実とフィクションがいったん等価になったということなのだけれど、それでもなお事実の方を選択した——つまり、事実の方にリアリティがあると判断したということは、結局、小説家の想像力が事実に負けたということではないかと思うのだ。
ここで私が「事実」と言っているのは、アメリカ中西部の田舎町で起きた具体的な事件ひとつのことではない。
この種の一家皆殺しに類する事件とそれを犯す犯罪者として選ばれがちなタイプの人間とそういう犯罪者が受ける刑罰のシステムそれらがすべて読者にとって、「事実であっても不思議ではない」「こういう事件はまだ実際には起きていないけど、いつ起きてもおかしくない」という事実を基準にした了解の範囲にあるということで、「小説がついに事実を追い越した」という評価も当然この、「事実を基準にした了解」の中での評価でしかない。
それに対して『罪と罰』の、ラスコーリニコフと判事のポルフィーリイとのやりとりなどは、犯人と判事のあいだでこのような応酬が実際にありうるかどうかなんていうことは誰も考えない。二人の応酬は事実性とまったく別の次元で聳え立っている。
ポーの小説だって、事実性はまったく問題にならない。二十世紀にそういう小説が全然ないのかと言うと、そんなことはなくて、たとえばフラナリー・オコナー(一九二五−一九六四)の、暴力が噴出する短篇群は事実性と無縁のところで成り立っている。オコナーの『善人はなかなかいない』は、休暇に一家でアトランタからフロリダを目指していく途上で、偶然脱獄囚に出会って皆殺しされてしまう短篇だが、このようなことが現実に起こりうるかというようなことを読者は考えない。
しかしオコナーもまた救いでなく暴力を書いた。オコナーの世界には救いの予感がまったくないわけではなく、すべての暴力や理不尽さは救いと裏腹のところで起こるということらしいのだが、私の読んだ作品の範囲では誰かが明快に救われることはない。
この、暴力あるいは犯罪が問題なのだが、私にとってのヒントというか打開の道すじは、前回書いた「勝手なこと」が何故悪いことにならなければならないのか、というところにある。小説の中で登場人物たちに「勝手なこと」をやらせたり言わせたりすることを私は“悪”を為さしめることだと思っていない。それはサッカー選手がフィールドで自由に動き回るというときの「自由」と同じ意味だと私は思っている。
「自由」とは最大に力を発揮することだ。それは無秩序な動きでは実現しない。次回はそのことを書こうと思うが、急ぐ道のりでもないので違うことを書いてしまうかもしれない。