私に固有でないものが寄り集まって〈私〉になる(『小説の自由』8)

私の言葉は他者の語らい

解釈するということは、主体(または作品)を本人が意図していない別の主体(作品)に置き換えることではない。
五月号で書いたことの繰り返しになるが、七〇年代頃に流行っていた、夢や作品のフロイト的解釈がこじつけめいた裏読みでしかなくて、フロイト嫌い、精神分析嫌いをかえって作り出してしまった原因は、主体(作品)をきちんと解体しないで、別の意図を持った主体(作品)に置き換えていただけだったからだ。
 レヴィ=ストロースの神話の構造分析はすごいけれど、その手つきが鮮やかすぎるために誰も真似ができないところが欠点だというようなエッセイを読んだことがあるけれど(誰が書いたか忘れてしまったが)、フロイト的解釈・分析もまた同じように熟練を必要としていて、にわかフロイト理解による解釈では主体(作品)が解体されない。
〈私〉は私が思い込んでいるほど固有な存在ではなく、〈私〉の中には常套句のような完結したフレーズや機械とほとんど同等の会話ソフトのようなものが組み込まれ渦巻いている。
痴呆とまでは言わないがそろそろ思考力が怪しくなった老人の会話を聞いていると、反応が異常に早い。たいていの場合、相手が言葉を言い終わらないうちに「そうなのよ、うちの嫁もこのあいだ……」などと返答し、その話が終わらないうちにもう一方の老人も「だから、若い人の考えてることはもう私たちにはわからないのよ」と応える、というように矢継早に会話が応酬されているのだが、そこでは老人たちが何十年間と行なってきた会話の型がやりとりされているだけで、中身の吟味はない。
以前テレビで見たインコは人間の言葉を自在にしゃべって、飼い主のおばあさんときちんと会話できていたのだが、会話とはインコでもできるような楽器のかけあいのようなもので、会話を起源に持つはずの言葉全般も気分や場の空気に乗せて繰り出される音楽のようなものなのではないか。
「次の総理大臣は誰になってほしいですか?」
と街頭インタビューすると、決まって、
「誰がなっても同じだから」
という応えが返ってくる。
これもまた日本人に組み込まれた会話ソフトであって、その人は考えて答えたわけではない。
しかし、「次の総理大臣」なんて、他人の言葉を使わずに、自分だけの言葉でどうやって考えることができるだろうか。次元の差こそあれ、人間はすべて他人の言葉を操作することを「考える」と称している。五月号からずうっと先送りになってきた新宮一成(しんぐうかずしげ)のカフカ解釈について書く前に、このことは押さえておかなければならない。ちょうど届いたばかりの雑誌、季刊「大航海」51号(二〇〇四年七月号)特集「精神分析の21世紀」に、新宮一成がこういうことを書いている。

無意識は「他者の語らい」として規定される。事実、自己が語ることがらは、物語化されており、したがってナルシシズムに浸されてしまっているから、信用できるのは他者からくる言葉だけである。ところが、他者から来る言葉だけを吐いている人間は、どう見られるだろうか?自己責任の取れない人、ということになる。どちらにしても自分らしさというものは期待できない。だから、人格というものがあるとすれば、それは、他者から来た言葉とナルシシズムとの組み合わせ具合として定義されることになる。人格とは、その組み合わせ具合の、その人ごとに最も安定したあり方、ということになる。

ここで「ナルシシズム」の定義が問題になるかもしれないが、私はたんに「〈私〉の固有性を信じること」ぐらいに考えておけばいいのではないかと思う。「自己が語ることがらは、物語化されており」という箇所を読んで、「つまり、物語を語りたいのは人間として必然的な欲求なのだ。だから小説には物語(ストーリー)が必要なのだ」と都合よく受け取ってしまう人にはいまここでは言うことはない。何でも自分に都合よく解釈してしまう小泉純一郎タイプの人は案外強固で、そういう人の砦は簡単に崩せるものではない。自己を省みる回路をまったく持たない総理大臣の任期中に、小説史上最高の売り上げを記録したベストセラーが出現したのは何かの符合、という以上に、時代の同じ基盤から生まれた出来事なのではないかと思うのだが、どちらも私にはこれより深く考えようと思うほどには関心がない。
ここで私もまた新宮一成という他者の言葉を流用して自分の文脈にはめこんでいるわけで、引用した新宮一成の論旨に不満のある読者がいたとしたら、この部分だけで新宮一成や精神分析を批判しないで、まずは「大航海」に掲載されている全文にあたってほしい。ここでは新宮一成というクレジットがついていても論旨の責任の所在は保坂の方にある。———という「責任論」も奇妙な感じがするが、とりあえずどこかで線を引いて、「自己の領域」を決めておかないと、計算が複雑になる。
社会の慣習や法の対象としても、「自己の領域」を決める必要があるのだろうけれど、そういうことはいまはどけておいて、思考のユニットとして、「自己の領域」をとりあえず決めておかないと、いつでも全部を持ち歩かなければならなくて、思考する際に余計な負担が増えてしょうがない、という意味での「計算が複雑になる」ということだ。「精神分析」とか「フロイト」という言葉を使うときに人はいちいちそれの厳密な定義や内容をすべて検索しているわけではなく、それらの名詞を一種のラベルとしてとらえて、だいたいのところをチェックして先を読み進める。
私がいま「責任は保坂の方で、新宮一成や精神分析の方ではない」といったのは、引用部分を誤解・曲解した人が、この部分だけで「新宮一成」なり「精神分析」なりのラベルをそれらに貼りつけたら困る(?)というようなことだ。では、保坂に対する誤解・曲解はかまわないのかといったら、それはいちおう今回の文章全体で一定の論旨を形作るわけだから、引用部分で生まれた誤解・曲解は保坂の論旨に回収されることで解消されるだろうという意味だ(楽観的ではあるけれど)。

新宮一成によると、「もともと人間の脳は、柔らかいテープレコーダーといった趣の物体であって、他者の語らいを忠実に記録している」。そして「人間は、成長して、それを自分の言葉であると思い込んで外に出すように出来ている」。
繰り返しになるが、ここでもまた、この新宮一成という他者の言葉は私(保坂)の言葉である。私は礼儀(社会の慣習ということか)として「新宮一成」という名前をクレジットしたけれど、この言葉は「他者の語らいを忠実に記録している」のと同じ意味で私の言葉であり、私の考えたことである。
「引用問題」でついでにもうひとつ言っておくと、引用というのは、それによってある権威が付与されるような効能がある。いまここでは、私は精神分析という権威を借りたわけだが、それ以上の引用の効能として、「引用箇所は真偽を問われない(問われにくい)」または「なかば自動的に引用箇所が真理として機能する」ということがある。引用箇所は数学の定理と同等の価値を持つ、証明済みの信じるに足る事項であるという錯覚を読者に与えやすいのだ。
七〇年代、八○年代の評論では、マルクスの言葉の引用がそういう機能を果していたことが多い。一度驚いたのは江藤淳の評論でたびたび福沢諭吉の言葉の引用が真理として機能していたことだが、評論にかぎらず日常でも思いがけない人物の言葉が真理として引用される。
「いまでも忘れられないのは、中学のときに歴史の先生が『人生とは××××だ』と言ったことなんですよ」
というような台詞は、テレビのトーク番組でしょっちゅう耳にする。
こういう引用によって引用の奇妙さに気づくと、「なかば自動的に真理として機能する」引用によって論旨の正当性を確保したいという以上に、引用することで引用者の側がその言葉に真理としての権威を与えているという転倒が起こっていることがわかる。福沢諭吉の言葉をたびたび引用していた奇妙な評論では、そうすることによって江藤淳は母校の創設者の真理値を高め、権威を付与していたのだ。
しかしそれら他者の言葉はすべて自分の言葉、自分の思考を形作っている言葉なのである。———ということは、他者の言葉を引用して、他者の言葉にそのつど真理としての権威を付与するということが、そのまま自分の言葉の真理値を高めているということになる。
真理とはもともと言葉の外から与えられるはずのものだが、この引用の循環の中ではただ循環させることだけで言葉の真理が生産されている。なんとも実体を欠いた真理だが言葉というのは本質的に(起源として?)そういうものなんだろうと思う。それに陥らないようにするには、引用した言葉を論旨の根拠にしないことか、論旨の根拠にする場合にはその言葉の真理が実証的に確認されているものにかぎることの二つぐらいだろうが、そこにまた徹底した懐疑主義者が登場したら私にはもう論旨を守るすべがない。
しかし徹底した懐疑主義者に対して私が論旨を守れなかったとしても、それは私とその人という閉じられた関係の中で起きたことで、それで論旨までが破綻するわけではない。ただ懐疑主義者のその人が何も得られなかったというだけのことだ。

私のかけがえなさの起源

脇道が長くなってしまったが、作品を解釈することは、そのような人間−言語観が前提となる。何度も繰り返すが、作品を作家本人の意図と別の意図に置き換えるだけの解釈では、作品も主体も温存されてしまって、意味がない。「この作品を通じて作者が本当に言いたいのは……」というような作品解釈によって得られる「もう一つの作品像」は、解釈する側の願望のレベルを超えるものではない。
人間は類型、(図式)の集合体だ。〈私〉に固有でないものが寄り集まって〈私〉になっている。〈私〉の中には〈私〉しか持っていないものは一つもない。———しかしそれを理由に個人を否定するのは(そういうモチーフの小説やマンガがよくあるが)、タダッ子のようなもので、もともと期待が大きすぎたために失望が大きい、その失望の結果だ。それはともかく、固人を固有性でない次元で肯定するのはそう簡単でなく、周到な論理や価値の網が必要で、この連載は個々の作品の生成とともに人間の個の問題にも関わり、いろいろ迂回しながらその二つに向かっていると言えるとも思う。「迂回」とか「脇道」とか書いてはいるけれど、それらはすべて私自身の考えを確認する手続きであり、読者と私との共通の了解を得るための地ならしなのだ。
「もっと手短かにスパッと言えないのか」とか、「わかっているんだったら簡潔に言えるはずじゃないか」
というようなことを言う人がよくいるが、人間も小説も、そんな小学校で習う図形のように単純なものではない。
たとえば私が飼っている猫たちだが、いまいる三匹の猫は私にとっては、かけがえがない。今回の連載分を書く前にその中の一匹がひどく具合が悪くなって、一週間獣医に連れていって毎日約十時間点滴をして連れ帰ってくるというのを繰り返して、その一週間が過ぎて容体が少し落ち着いて通わなくてよくなったのだが、それからもまだはかばかしくない状態が十日つづいて、「まさか……」「どうなってんの……」と激しく動揺して、だから今回はいつにも増してとりとめがない書き方になってしまっているのだが(幸い三日前からやっと良くなってきました)、その猫も含めて、うちにいる三匹の猫は全員捨てられていたのを拾った猫だ。ペットショッブで十万円とか二十万円で買ってきた猫ではない。
しかし一ヵ月も一緒に暮らしているうちに、たちまち「かけがえがない」存在になっていた。半年、一年、二年……と一緒に暮らすうちにそのかけがえのなさはどんどん深まる。何年目までその深まりの度合いが大きくなるかなんて数量化は意味がなくて、「深まる」という言葉が海や川や池の物理的な深さを、比喩的に転用しただけのもので、心それ自体に深さも浅さもないわけだけれど(しかし「深い」だの「大きい」だの「濃い」だのという物質起源の言葉によって心の状態を表現することに馴れすぎている私たちは、心を「深さ」「大きさ」「濃さ」……などでない言葉で説明するのは不可能なほど、心に「深さ」「大きさ」「濃さ」があると思い込んでしまっているのだが)、とにかく最初は拾っただけの猫がしばらく一緒に暮らすうちに「かけがえない」存在になる。
猫にも性格はある。それは外界からの刺激に対する反応から容易に推察できる。ある猫は用心深く、ある猫は大胆だ。好き嫌いが激しいとか何でも喜んで食べるとかの違いもある。それが性格や育ち方によるものなのか先天的な体質によるものなのか判然としないが、それは人間も同じだ。あるいはいつでも私のそばにいたがる猫とたいていは一人でいるのを好む猫———という風に性格、行動パターン、体質、体格、体形……などの要素を組み合わせていけば一〇〇や二〇〇では足りない個性が生まれてくる。十九世紀にアメリカで奴隷となって労働させられていた黒人たちに対して白人たちが見出していた個性の数よりも多いくらいだろう。
しかし私にとってうちの猫たちがかけがえないのは、私が猫それぞれの個性を発見したからではない。それは逆で、かけがえがないから個性の違いが一層よくわかるようになっただけのことで、猫がもっとずっと個性の違いを見つけにくい生き物だったとしても猫は私にはかけがえがない。
堂々巡りになるが、そのかけがえのなさは一緒に暮してきた時間にしか根拠がないのではないか。———ぺットショップでの出会いでも捨て猫(犬)との出会いでも、「最初に目と目が合って、もうメロメロになった」という言い方があるけれど、一緒に暮らす過程で発見していく個性とだいたい同じものとして、「最初の出会い」が飼い主と猫(犬)との絆の“神話”としてそのつど確認されているのであって、最初の出会いそれ自体には以後何年にもわたって飼いつづける気持ちの強度を供給してくれる力はない。そうでなければ毎年何万匹の犬や猫が捨てられることの説明がつかない。
「最初の出会い」というのは正しくは最初=一瞬でなく、「子猫(子犬)のとてつもない可愛らしさ」ということで、その期間は三ヵ月から半年はつづく。その時間の中でかけがえのなさが醸成されていく。
いや、そんなペット談義はどうでもよくて、いまここで言いたいのは、〈私〉というのもそれと同じことなのではないかということだ。私は固有性によって〈私〉がかけがえないのではなくて、ただ私と一緒にいた時間によってかけがえのなさがもたらされたのではないか、ということだ。

〈私〉のかけがえのなさの起源は、ペットのかけがえのなさと同じである。

このセンテンスは二種類の人にきっとまったく違ったように響くだろう。
〈私〉に過剰な関心のある人にとっては、「たかがペット程度なのかよ」という否定的な響きを持ち、私(保坂)のように猫なしではいられないような人間にとっては、「うん、だいたいそういう感じなんだろうな」と、喜ぶとまでは言わないにしても否定では決してない、いい感じの響きを持っていて納得できる。
前者のタイプの人たちにはもうほとんど理解不能だろうが、後者の私のような人間にとって、〈私〉はあんまり世界の中心にいなくて“媒介”のようなものになっている。猫と一緒にいるときに私が〈私〉として確認されたり、何かを考えているときに私が〈私〉として確認されたりする。
しかし!その猫はもともと道に捨てられていたのを拾ってきたものであり、何かを考えているときの私が使っている言葉は他人の言葉なのだ。

本当に話を本来の筋に戻そう。
人間は類型(図式)の集合体であり、〈私〉に固有でないものが寄り集まって〈私〉になっている。
精神分析の場合、その類型が無意識の「欲望」の次元でとらえられることが多い。五月号から先送りになってきた新宮一成によるカフカ解釈は「眠る」「眠りたい」ということにひたすら焦点が絞られている。
その論考では、カフカ文学の“一側面”が解釈されているのであって、“全体”はその論考から憶測することができない(ここで“一側面”という言葉に、軽−重をあらわす意図はない。「眠る」「眠りたい」がカフカ文学の中心的関心ないしそれ抜きでは小説が成立しない推進力であったとしても、作品の“全体”を憶測することができない、という意味で“一側面”なのだ)。つまり、その論考を読んでも読者は元の作品を構築することができない。ということは、論考を読んだからといって元の作品を読んだような錯覚は持たない。
間違っても『あらすじで読む日本の名著』のような、元の作品を読むことの代償行為にならないというのはひじょうに大事なことであって、小説を解釈するときに、元の作品の代替物になってしまっている解釈がけっこう多いのだ。———それが作家本人が意図しない別の作品(主体)に置き換えるだけであることは繰り返しになるが、何度でも書いておく必要がある。そういう読み方は解釈でなく、読み手の側の願望かナルシシズムなのだ。そんなものを「この作品の本当の意図」として押しつけられて、反発しない小説家がいるだろうか。
しかしそれが欲望だったら話は別だ。無意識の次元まで人は責任を持てない。というか、誰もみんな無意識を垂れ流して社会生活を送っているわけではないから、無意識が外に出ようとするときの責任はあるけれど、小説だったら割り切って考えることができる。———という言い方もできるだろうが、そういうことでなく、欲望を知らされることは己の組成を知ることなのだ(己の組成を知らされて腹を立てる人もいるけれど)。
もちろんここでも生半可な精神分析の真似事が無意味どころか有害なことは言うまでもなく、新宮一成のどの論考でもいいから一つ通読してみるとわかることだが、精神分析の語り口は他の哲学の語り口などと比べても入り組んでいて、メビウスの輪のような、クラインの壼のような仕組みになっている。“図”を語りつつ“地”に及び、“地”を語っているのがそのまま“図”になっているというような、そういう思考法に熟達していないと、たやすく語り手の願望にとってかわられてしまうようになっていて、その最もわかりやすい例が「夢は眠りの番人」という考え方だろう。
フロイトの『夢判断』(正しく訳せば『夢の解釈』)に出ていた例だが、幼い子どもが死んでその通夜のこと。その土地では通夜に一晩中棺の傍(上?)のロウソクを灯しつづけるのがならわしで、父親が夜を徹してロウソクの番をしていた。しかし子どもの看病から通夜までで憔悴していた父親は、睡魔に勝てずうたた寝をしてしまう。そのうたた寝の中で彼は夢を見る。
棺が炎に包まれて、棺の中で死んだはずの子どもが「お父さん、ぼくは火に焼かれているよ。熱いよ」と助けを求めている。そこではっと父親が目を覚ますと、棺にロウソクが倒れて、棺にかけた布が燃えていた……。
この夢の中で棺が燃えたのは、うたた寝する父親の閉じた瞼を通して、実際に布を燃やしていた炎が見えたからだ。それは誰でもわかる。しかし布を燃やす炎を瞼越しの視覚が感知しても、父親はどうしても睡魔に勝つことができなかった。そこで父親は自分の睡眠を正当化するために(「正当化」とは書いてなかったかもしれないが)、棺の中で息子が燃えているという夢を作り出して、目覚めをほんの少しだけ先送りした。つまり睡眠を引き延ばした。これが「夢は眠りの番人」の意味だ。
夢を見ているかぎり人は眠っているのだから、たとえ悪夢であってもその夢を見る時間だけ眠りが引き延ばされる。眠りという決められた枠の中で夢を見るのではなく、夢によって眠りが延ばされるというこの反転は、精神分析に熟達しなければ思いつかない。
たとえば半紙に書を書く姿を想像したときに、先に決まるのは半紙の大きさであって書の量ではない。しかし夢と眠りの関係では、夢(書)が眠り(半紙)の長さを決めることがありうる。バケツに蛇口から水を入れているときに、「あ、溢れる!」と思ったときにバケツが深くなっていく———そういうことはイメージしにくい。
私たちは、容れ物と中身という組み合わせを考えるときにまず間違いなく、二つの物質による組み合わせを考えてしまうようにできているが、人間の内面に関わることでは(両者ともに物質ではないのだから)容れ物が先に決まっているとはかぎらず、両者がつねに可変的なまま事が進んでいく。
小説とはまさにそういうものだ(ただしこれは、キャンバスのサイズを前もって決めてから作業をはじめる画家にはわかりにくいかもしれない)。
読者は小説が小説として完成されたあとに接するから、「全体の三分の二ぐらいにきたところで、主人公が……」という解釈(または、作品の把握の仕方)をしがちだけれど、それは作品をいったん数直線のような、時間軸にそった流れに視覚化した変形を施したあとでのとらえ方であって、書いている小説家の方はそういう風には考えていない(これは五月号のブーレーズの引用と重なる視覚の問題でもある)。小説を語るときには、全体の枠から語らない語り口が必要なのだ。
それと似た問題で、ガルシア=マルケスの『百年の孤独』を読んでいると系図を書きたくなるという話がある。『百年の孤独』には、ブエンディア家の、アウレリャノという名前を持った人物とアルカディオという名前を持った人物が何代にもわたって繰り返し出てくる。
新潮社から出ている日本語訳で、七〇年代に出版された本には系図が載っていなかったが、九九年に出版された新装版では「ブエンディア家家系図」が巻頭に載っている。系図は英語版には載っていて、コロンビア本国のスペイン語版には載っていないらしいが(スペイン語版は私自身は確かめていない)、九九年に新装版が出て久しぶりに読み直してみたときに、私は系図は必要ないというか、ない方がいいと思った。
以前、系図の載っていない版で読んだときには途中で混乱して系図を書いたけれど、『百年の孤独』においては名前の混乱もまた作者の戦略の一つなのだ。
「戦略」といっても読者をただ混乱させることが目的なのではない。混乱したときに前のページを辿り直すと、「このアウレリャノはどのアウレリャノか」ということがわりと簡単に確認できる。書いている作者は当然、そういうところで混乱しないで書いているのだから、混乱しそうになったところで前のぺージを読み返せば読者も混乱しないですむ。つまり私が「戦略」という意味は、もう一歩踏み込んで、「混乱しないようにするために、一冊の小説をただ真っ直ぐに読まないで、読み終わったぺージに何度も戻らせるための戦略」という意味でもある。
系図を目で見て、「このアウレリャノは三代目のアウレリャノだな」と、ふつう私たちは確認したつもりになるわけだけれど、それによっていったい何を確認しているのだろうか。先月号のカフカの『城』の全部を憶えようとしたという話にも重なることだけれど、小説の登場人物を記憶することは自分の人生で出会ってきた人たちを記憶するように記憶することであって、時間軸にそって並べることではないし、作品世界を図式化してその図式のどこかに配置することでもない。
一人一人のアウレリャノがどういう人で彼が何をしてきたかを憶えていれば、何人アウレリャノが出てきても混乱はしない。そういう風に記憶していくためには、『百年の孤独』は一回真っ直ぐに通し読みしただけではダメで、読み終わったところを何度も何度も読まなければならない。効率が悪い?そういう読み方は効率が悪い?読書とは効率とは無縁の行為だ。「一晩で読んだ」「一気に読んだ」という、本の宣伝文は、これくらい読書という行為の価値を殺すものはない。読書は単位時間あたりの生産性を問われる労働ではないのだ。
それはともかく、そういう風に行ったり来たりしながら読んだ果てに、『百年の孤独』にはもっとずっと大きな混沌がやってくる。作品世界が生まれ消えていった「百年間」というのが長かったのか短かったのか、読者にはふつうに時計やカレンダーで知ったつもりになっていたような測り方ができなくなっている。一つ一つのエピソードは強烈だったはずなのに、それらがあまりに数多くつづきすぎたためなのか、過ぎ去ってしまったそれらエピソードは羊皮紙や紙が風化して粉々になってしまうように、遠く、実感がないものに変わっている。
あれほど熱心に読んでいた小説なのに、本を閉じてしまうと私の手には何も残っていない。ただエピソードの群れが、本の中で語られたようでなく順番をなくして混在しているだけ。しかしそれも実際に読書という行為が持続していたあいだのようにはリアルでなく、遠いものになっている……。
『百年の孤独』ほど、小説というものが読んでいる行為の中にしかないということを実感させる小説はないのではないか。そこに小説の真骨頂があり、『百年の孤独』を読んでいるあいだ私たちは、ニュートン力学的な絶対時間や絶対空間とまったく別の時間と空間の中にいる。
小説家が小説を書くときには、多かれ少なかれ小説とそういう関係を持って進んでいるのだけれど、書き終わってしまうと、それを書いた小説家本人さえもいつもどおりのニュートン力学の世界に戻ってしまって「半分まできたところで……が起こり」「終わり間際になって……だったことがわかり」というように考えてしまっている。
『百年の孤独』は、小説を書くのに近い体験を読者に与える稀な作品で(ただし、系図を見ないで記憶だけで人物を把握しつづけるかぎりにおいてだが)、ふつうは小説家にとってさえ、小説を書くことと読むことは異質な作業だ。小説について語ることはさらにまた、書くのとも読むのとも異質な作業だ。その三つは、音楽を演奏することと聴くこと、音楽が終わったあとでそれについて語ることの三つと同じだけ別々の作業なのだが、この連載の中で私は、強引を承知で、小説を書く側から他の二つを、いわば従属させようとしている。理由は、それが最も生産的だと思うからだ。「生産的」とは、小説について考えるべきことが生み出されるという意味だ。私はいまのところ、小説を書く側にふさわしい言葉を全然獲得できてはいないけれど、小説を書く過程で小説家が書くために使っている思考の流れ(それは書かれることはない)がどういうものかは読者も少し知ることができるだろう。

小説は読者の精神を寝かさないためにある

ところで私は、これを書きながら何日も前からずっと、季刊「大航海」50号(二〇〇四年四月号)特集「カフカと現代思想」に収録されている新宮一成の論考「カフカ、夢と昏迷の倫理」をどういう風にここで紹介すればいいのか困っている。
論考に対する私自身のスタンスの取り方がわからないというような複雑なことではなくて、私は文章を手際よくまとめることができないのだ。「全文引用するわけにはいかないしなあ……」という風に悩んだり困ったりする私は、つまり、論旨を手際よくまとめた文章に対して不信感を持っているとも言える。お経は全文唱えるものだし、音楽は全曲聴くものだ。そういう時間がないときには部分を抜粋するものであって、時間の制限に合わせた作り換えはしない。手が入ったらそれは別のものになってしまう。そう思うからなおさら論旨を要領よくまとめることができない。

論の中ほどで新宮は「緊張病」の説明をしている。「緊張病」というのは外から見ると死んだようにひたすら眠っているように見えて、起こそうとしても何も反応がないという症状で、広い意味での「統合失調症」(精神分裂病)の一種であって、「言ってみれば、筋肉が勝手に緊張の度合いや運動の仕方を決めてしまうので、主体はその筋肉の自動運動の中で囚われの身となってしまうのである。とくに、反応の無い状態は「昏迷」という独特の名で呼ばれるが、それはあたかも自由の利かないモビールスーツを着ているようなものだと思えばいいだろうか」。
つまりこの表題にある「昏迷」とは「政局の昏迷を招いた」などと比喩的に使われる「昏迷」でなく、医学的な症状としての、「昏迷」なのだ。新宮の論考はこの医学的な立場から逸脱しない。用語が比喩的な意味にすり替わってしまわないことは重要なことだ。「論」として考えるときに、もしその人が問題をクリアにしようとして書いているのなら、比喩的な用法は本来許されない。比喩的な用法をしてしまうと、論者の意図を離れて言葉の運動として、意味が勝手に横滑りしていってしまう。私たちは科学の時代を生きているのであって、この時代にあって「論」は、数学や物理の論証を雛型としていて、読者も明確には意識していなくても、そういう論証の頭の使い方をして読んでいるのだから、意味を確定しがたい言葉(つまり、比喩)を使うことは騙(かたり)になる。
緊張病は昏迷とその反対の激しい力を出す興奮を繰り返す。六ヵ月にわたって昏迷と興奮を繰り返した新宮のある患者は、そこからやっと抜けきったとき、
「醒めない夢を見ていたようだった」
と言った。
ここで「ようだった」という直喩が使われているが、これは曖昧に語っているわけではなく、「醒めない夢を見ていたとしか言いようがない」という用法だ。「ようだった」を使うなと言われれば、「昏迷」または「緊張病」となる。つまりそれは、症状だから名指すことができる。
しかしこれが「(しいて言えば)醒めない夢を見ていたようだった」という言葉による説明しかなくて、一言で名指しうる言葉を持たない状態のとき、人はそれを何と呼ぶか?「小説」だ。小説とはその全体を使って、そう語るしかなかったもののことなのだ(「醒めない夢」が小説だと言いたいのではない。「万力で締めつけられているようだった」としか言いようがなく、それを一言で名指しえない状態、それが小説ということだ)。
だから小説は精神分析に回収されない。精神分析は小説の一側面しか語れない。その小説が、精神分析の図式を使って読めたとしても、あるいは官僚機構として読めたとしても、貨幣の流通の似姿として読めたとしても、それで説明しきったことにならないのが小説だ。
新宮一成は言う。

我々は朝目覚めたときに、そこが夢の世界ではないことにすぐ気がつく。たった今まで真剣に夢を見ていたのに、夢だったのか、で済ませてしまう。たとえば夢の中でどこかへ行き着こうとして、どうにも行き着けないような夢を見ていたとすれば、いったん起きればもうそこに行くことなどどうでもよくなり、それがどこだったかも気に留めない。これはいささか節操を欠いてはいないか?

この前にはこうも書いている。

……なんとしても、そこに辿り着かねばならない。「運命」だから。ここに、「夢から醒めないでいる倫理」あるいは「昏迷の倫理」が開けてくるのである。しかも、この意味での「夢」は、もはや眠りの一種ではない。それは通常の覚醒よりさらに覚醒度が高い。すなわち「夢から醒めないでいること」は、「真に覚醒すること」へと、裏返しに倫理化されるのである。そして、覚醒して掟の世界に生きることは、むしろ、「惰眠をむさぼること」へと、反倫理化されるのである。

連載の一回目から私はすべての引用を一字下げしないで書いていて、それは、〈私〉の言葉は他者の言葉なんだからというつもりのあらわれだったのだが、こういう文章の引用となるとなんとも紛らわしい。社会の慣習に従えばこれは引用である。しかし、こうして書いてしまうとやっぱりこの他者の言葉は私の言葉でもある。だからなおさら紛らわしい。

実際、掟は、掟の信奉者を寝かしつけるものである。我々も、法律を尊重して生活しているが、それは法律によって自分の精神の一部を眠り込ませるためである。その状態は、分析用語で言えば、超自我と自我の間柄に属する。つまりそれは一つの催眠なのである。掟に従属するということは、起きていながら眠ってしまう催眠状態に自ら進んで陥るようなものなのだ。
書くという行為は、起きていることを前提としている。人よりもはっきりと目覚めていることは、カフカの自己決定の一部であったと思われる。しかし彼は眠りたかった。それゆえ、彼は、眠りの外側を、催眠と同じ状態だと断じることにした。世間と一緒に起きていてどうするのだ?それは実は眠り込んでいることと同じなのだ。

『城』の展開らしいものとか局長のクラムを覗き穴からKが覗いたらクラムは居眠りをしていたというエピソードも書いてはいるけれど、新宮の論考は結局のところカフカ文学を解釈していない。これは解釈とは別のものだ。あるいは、これが解釈だとしたら、文芸評論の形でなされる解釈は解釈ではない。
新宮一成はカフカの中心にあって、カフカに彼の文学を書かせた力しか問題にしていない。しかし、カフカにカフカの小説を書かせた力はカフカに固有のものではなく、多くの人に共通のものだ。
多くの人に共通にあるものをカフカだけが小説を書くための力にした、ということなのだろう。小説を書くための力(それを「昇華」と言うのか)にならなければ、それはきっと「症例」になる。精神分析の立場に立つ人は、小説(広く芸術全般)や症例それ自体でなく、その元にあるもの(欲望というのか)を論じるから、「小説は症例の一種である」ということになってしまうのだけれど(友人のKもそういう言い方をする)、小説と症例は、しかしやっぱり同じものではない。その元となったものが同じであっても、症例と小説はあらわれ方が違う。受容のされ方も当然違う。この違いは大事なことだ。
といっても両者の違いを私は正しく説明できるだろうか。たとえば私は、症例とは読み解くべきものであり、小説は書かれてあることをそのまま読めばいいものだと言う。———しかし、これは本当だろうか。
症例だってもしかしたら読み解く必要なんかないのではないか?たとえば近代以前の社会だったら、狂人が突然「予言者」にまつりあげられたりして、彼の言葉を「読み解こうなんて誰も考えなかったのではないか。逆に狂人の言葉を支離滅裂なただの「たわごと」と撥ねつける態度も、読み解こうとはしていないという意味で同じことだ。……ということは、私の「小説は書かれてあることをそのまま読めばいい」という小説観は近代以前のものということになりかねない!
私は「主体」とか「〈私〉」のことをいろいろ言いながら、それでもやっぱり、小説家ないし小説の、「主体性」や「固有性」や「創造性」を完全に否定することに意味があるとは思っていず、小説家(広く芸術家全般)のそれらを狂人のそれらよりも上位に置いている。
五月号から三ヵ月も先送りしてしまった新宮一成の「カフカ、夢と昏迷の倫理」を、「わかること」「解釈すること」への批判として、そうなっていない実例としてどういう風にこれを取り上げようとしたのか、正直言ってもうよくわからなくなってしまったのだが、その原因は「三ヵ月」という時間でなく、いろいろ考えるうちにわからなくなってしまったということなのではないかと思う。
たとえば新宮の論考は『城』の「城」は何を意味するかというようなことには関心を示していない。「『城』は、「俺は寝ていてもよいのだ」ということを自分に言い聞かせるために書かれた小説、つまり、〈不眠小説〉に他ならない」と書いてはあるけれど、それで「城」がじゅうぶんに説明されたとは思わないだろう。
この三ヵ月のあいだに、すでに先月、私は「城」は比喩ではないということを書いてしまっている。その考えは新宮の論考とも呼応している。
かりにカフカの遺したタイトルが『城』でなく、『城を目指して』とか『城を求めながら』だったらどうだったろうかという仮説を立ててみても、「城」が何を意味するかと読者が考えつづけた状況は変わらないことは、ベケットの『ゴドーを待ちながら』の「ゴドー」とは何(誰)であるかとみんなが考えてしまう現状がはっきりと示している。『ゴドーを待ちながら』の比重は、「ゴドー」でなく「待ちながら」の方にあるのだが、人は動詞や状態をあらわす言葉よりも圧倒的に名詞に反応するようにできているらしい。それが、小説に書かれていることをそのまま読むのではなく、意味を考える性癖の要因の一つともなっているのだろう。
というわけでよくわからなくなり、よくわからないまま今回も終わるのだが(しかし今回はまるで解体された主体のように、いつにも増してバラバラだった)、新宮の論考から引用した、
「掟は、掟の信奉者を寝かしつけるものである」
という一節に私は感動した、というか強く同意して、その気持ちは三ヵ月を経過してさらに強くなっている。
小説は、読者の精神を寝かさないためにあるものなのだ。