【小説的思考塾vol.6 メモ】その13 ふたりの死の意味

昨秋のシロちゃん、2017.12月の花ちゃん。それ以前の猫たちの死と比べて、このふたりの死による私のダメージは意外にも小さかった。その理由をずうっと考えてきた。

1】死に直面する態度はどうするのがいいか、の答えはないが、死について考えてきた量の多さ(あれこれあれこれ、とにかく私はずうっと考えてきた。答えのないことを考えるのだから、質や精度でなく、まずは量。とにかく量)それが、死の衝撃を緩和した。
つまり、死について考えることに費やしてきた時間の量が作用して、「死による別れが決定的な別れだと、心の芯で思わなくなっている」ということなのかも。

2】シロちゃんはもちろん外に生きた猫。とくに2015年から2020年2月まで、私とシロちゃんは路地で時間を共有した。
花ちゃんは『ハレルヤ』に書いたとおり、草が茂る5月の庭で生きるスイッチが入った(→それがこの画像)。もともと花ちゃんは外が大好きで、その後も毎晩、私と外に出て、路地を一緒に歩いた。獣医の待ち時間は近くのお寺の庭で遊んだ。
生命と地面との関わりの想像を超えた力(恩恵)があることに気がついた。それは思いがけない(全く思弁的でない)アプローチによる存在論の核心でもあるかもしれない。ーーその話をします。