ようやく出会えた源氏物語(『図書』2017年12月号、岩波書店)

源氏物語は私は一話分も読みきったことがなかったがそれでも岩波文庫、角川文庫、谷崎潤一郎訳の中公文庫は揃えてあった。私は語学の才能がまったくないらしく英語が読めないように日本の古典が読めない。読めないなかでも源氏物語はひどい。高校の古典で出てきたときから一文まともに訳せない。

だから岩波版は主語(行為主体)が一つ一つ懇切丁寧に付いているがそもそも文の意味がとれないのだから論外、角川版は玉上琢彌による現代語訳が全文うしろに載っているからそれを読むことになるがそうなると次の難関が待っている。登場人物の関係や系譜がわからない。登場人物は思いのほか多く、それを憶えるのが大変なうえに呼び名がいくつもあって呼称の同定ができない……というこの問題が今回の岩波文庫版で見事にクリアされた、うれしい。

一章(一巻?)ごとの章末にその章に関係ある人の系図が載っていて、さらにその章でのその人の呼称がたとえば弘徽殿女御だとその下のカッコに、右大臣の女御、一の御子の女御、御方、弘徽殿、女御、春宮の女御と列挙してある。現代語訳で呼称が整理してあれば親切とは言えるが、そのつど変わる呼称に出会うたびに読者としての私は文学の文章における呼称が整理されていなかった時代に貧しい想像力を馳せることができる。

かつて呼称問題がクリアされないまま角川版と谷崎訳を読んでみたとき、もっと大事な感触の問題というか不満があった。原文で読めないくせに要求ばかり高いのが素人のあさましさだ。現代文として意味はまあそこそこわかったと思いながら読んでいても表面の意味しか読んでいない気持ちになる……。

何年か前、Eテレと名称変更する前のNHK教育でたしか更級日記だったと思うが、講師である男の先生が、とても雅びな抑揚で原文を一文ずつ読んでは、当時の社会背景や恋愛観や道徳観などいろいろな注釈を織り混ぜながら現代文に置き換えてくれてとても楽しかった。

「あはれ」でも「あさまし」でも現代語訳といういわば機械的な作業を通過すれば当然そのつど一語の現代語となる、そして私は現代語としてそれを読む、古典の素養がないから結局(たぶん)現代語の意味の延長でそこを理解するわけだが古典の中の人たちは、その時代の土地や暦の中でその気持ちを抱いていたというか気持ちに染まっていた。

言葉にはそういう地層があり、現代語訳は地層をそのまま置き換えることはできない、あたり前だ。私があのとき更級日記の講座を聞きながら感じたのはそういう地層に触れることができている楽しさで、今回の岩波版は右頁が原文、左頁がそっくり注釈という注釈の多さで、左頁の注釈をいちいち全部読んでいると時間はたしかにかかってなかなか先へは進まないのだがあの更級日記の講座を聞いているときに感じた広がりがある。この文庫は読書というよりも源氏物語講座を聞いているようだと感じる。

注釈は、今の読者に今の感覚で作品を伝えようとするのでなく、作品の時代に読者を連れていとうとしている。それが理由かはわからない が、「帚木」の章の有名な男たちの雨夜の品定めが私は谷崎源氏でそこを読んでいたら下品というか不潔っぽいというか……男たちのする女遍歴の話が私がもともと嫌いなせいか読み通せなかったのだが、今回は下品とか不潔という感じはしなかった。

その一方で、同じ「帚木」の後半、源氏が空蝉とセックスするくだり、私の心が肉欲に汚れているからだろうか、性交に向かう源氏の肉体を唐突に感じた。だいたい、源氏が忍び寄って空蝉の顔の上に衣を被せたら、女が「や。」と恐怖の声を出した(出そうとした?)なんてことまで書くだろうか。その後、「空蝉」で空蝉と軒端荻【のきばのおぎ】が碁を打っているところで軒端荻の乳房が透けていたり、思いがけずずいぶん即物的な感じがする、これは多分に注釈のせいだと言ったら校注の方々に失礼だろうか。

性やエロを高い (?)教養を持つ男たちのあいだで遠回しに言って悦に入る文化がある。銀座のクラブかどこかで傍にいる女性に向かってそれを匂わせて、

「ヤダア、センセー!」

などと肩を叩かせる、私はそういう知識やユーモアのセンスに包まれたエロが大嫌いで、谷崎源氏にはそれを感じたのだった。一方、今回の源氏は即物的、ということはアケスケで無邪気、ということなんだと思う。これがエロスというほど洗練されたものか、私はそう言うには躊躇を感じる。

それともう一つ、夕顔はもののけによって死ぬ。源氏物語には即物的な性と怪奇が出てくるわけだ。格調高いとされている、あるいはみやびとされている物語にごくあたり前のように即物的な性と怪奇の両方が出てくることに私は驚くというか感心する、もっと言うとワクワクしてくる。

ひじょうに大ざっぱな思いつきを言わせてもらえば、樋口一葉にも夏目激石にもその二つは出てこない。それが出てくるのは江戸川乱歩だ。しかし江戸川乱歩は探偵小説という枠の中にあって、枠があるからいわゆる純文学で扱えない題材を扱うことができる。ジャンル小説というのはそういうものだ、といってもしかし乱歩の怪奇にもののけ、死霊のたぐいは出てこない。

即物的な性ともののけ、この二つを知ったとき私はデイヴィッド・リンチを連想し、リンチを連想したから私には場違いと思えるこのエッセイの依頼を受けることにした……ということは私は源氏物語についてはほとんど何も知らなかったはずなのに、その程度の知識はあったことになるのか? いや、この文庫は各章のアタマに、あらすじというのか、その章で起こる出来事がごく簡単に書いてある。

その「夕顔」のあらすじに、

19 寝入る枕元に霊女があらわれる。右近を女君に引き寄せると源氏は人を起こ

すため西の妻戸から外へ出る。

20 預りの子を起こし、紙燭を持って来させる。戻ってみると、女は息もしない。

21 紙燭の明かりに霊女が見える。女君の体は冷えて行く。

と書いてあるのを見つけたのだった。

このあらすじの書き方はなんか不思議で、これだけ読んでもふつうのあらすじのようには筋がわからない。右近、女君、預りの子についての知識が何もないから筋らしいものが定着しようがない。しかし 「夕顔」を読み終わった今はよくわかる。これはあらすじというより筋の索引のようだ。

この岩波版の全体の編集方針として感じられることなのだが、文章の逐語訳的な理解を目指していない。注釈はそこここで一文丸ごと現代語訳している、ということは(前の岩波文庫版のように)この時代の古文に精通している人を読者として想定しているわけではない。しかし注も現代語訳も何もない簡所もある。

読者=私は、右頁の原文を読み、左頁の注釈を読み、また原文を読み、あるいは章のアタマのあらすじ(筋の索引)を読み、あるいは章末の系図を見て人物関係を確認し……という風に、ベージをあっちこっち行ったり来たりしながら、かたまり、といっても雲のようなやわらかいかたまりとして原文を一ページか半ページずつゆっくり胸に沈めてゆく、そういう理解ないし受容プロセスを編者は意図していると感じる。

いかにも面倒臭く思われるかもしれないが、この、逐語的でない、一文一文明快に整理されるわけでなくやわらかいかたまりとしてゆっくり胸にとどめる読み方というのはじつは、最も普通でかつ上質な読み方だ。人は小説を読むときさっき読み終えたばかりのページをきっちり説明しきれるほどデジタルな読み方をしていない、しかし書かれていないことも胸に浮かべている、つまり雲のようなかたまりとなっている、ここにはたんなる現代語訳では消えてしまう言葉の地層の厚みもある。

話はデイヴィッド·リンチだ。リンチは『ツイン·ピークス』がたぶん最も知られているが、リンチの映画は怪奇とかホラーのようなジャンルものに分類されないにもかかわらずもののけ的なものが物語の要所で登場する、そんなことがどうして可能なのか?

その答えが「夕顔」にあった、というほど簡単なわけではない。が、そのときどきで変わる呼称、それともっと大事な主語(行為主体)の省略、それからたまに「人」とか「夕かほ」とか漢字を使ったり使わなかったりする表記法、それらは源氏物語にかぎらない古典全般の特徴ということなのかもしれないが、文章を書くうえでのこれらに対する配慮は現代(あるいは近代以降)の書き手が嵌められているとても大きな拘束だ。

現代の書き手は心の赴くままに書いているつもりでも読者が平安時代のように限定されていない、それゆえいま書いていることが何なのかを読者に対して「いつ・どこで・誰が・何を・なぜ・どのように」という5W1H的に明確にしなければならないという意識がつねに働くのがじつに煩わしい。今回の注釈を見ても主語はいつも敬語によって特定可能なわけでなく文脈から知られるようになっている例も少なくない。客観記述が心内叙述に移行しているという注の指摘に会うと、自在さにうらやましくなる。

呼称の不統一、主語の省略は今の感覚でいうと書き言葉より話し言葉にずっとちかい。紫式部自身は文学として読まれることにじゅうぶん意識的だったとしても、文章が成立する基盤が近代とは違っていた。何しろ改行は和歌のはじまるところだけ、句読点はいっさいなくほぼすべてひらがな、という文章だ。私だけでなく誰もが思うととだろうが、文章は読む呼吸が優先で意味はその上に乗った。書き手が書く呼吸と読み手が読む呼吸が同じでなければそれは難しい。

これは現代では想像しがたい、作者と読者の距離がゼ口の理想状態だ。距離がゼロなら、心に淡く去来する想像や不安を書く言葉をずっとつかまえやすかったのではないか? もののけはそこに生まれた。現代において不可能と思えるそれを実現することは可能なんだろうか…… 岩波版の源氏物語を読みながら、そんなことも考えている、とにかくこの源氏を私は純粋に楽しみとして読んでいるそれがうれしい。そして、源氏物語って凄い小説なんだなと、今しきりに思っている。