小説を考えるための強力な導き (佐々木敦『これは小説ではない』書評(『波』2020年7月号))

この本は演劇の章が圧倒的に面白い! 私はいま演劇の章を読み終わったととろでこの書評(紹介文)を書いています。この本はまさに佐々木敦にしか書けなかった本だ。映画、写真と音/楽を経て、演劇に至る。これは小説について考える本かもしれないがそうでないかもしれない。小説を書くのに小説しか読まず上手に小説を書くことしか考えていない人にとってこの本はどうでもいい本だ。しかし小説を書くこと、小説を書こうと考えることはとりもなおさず表現行為全般を考えることであり、私がことに存在していることを考えるととであり、この世界がどういうもの(こと・力……)で満ちているかを考えることだという意志を持っている人にとって、との本は強力な導きとなる。

私自身は、この本では詩にはふれていないが何人かの詩を読みながら散文であるところの小説の文章の不自由さをここ二年くらいだろうか、しょっちゅう考えてきた(それは大木潤子という詩人を知ってから始まった)。小説の語りというのはどうしてこうも安定しているのか、小説というのはなまじ商業的に採算が見込める分野であることが足枷となって文章が今までの書かれ方から大きく外に踏み出すことができないんじゃないか?

だから、映画、写真、音/楽とつづく二章から四章までがじゅうぶん刺激に満ちていた。私は読みながら佐々木敦とずうっと対話しているような気がしていた。四章(音/楽)の章まで読んだ私の考えたのは、それら三つの表現形態は突きつめると人間を必要としないんじゃないか、人間がいなくなったこの地球で世界を記録する機材だけがあるとして、機材が人間的意図なく世界または何かを記録し、なんらかの再生をするという想像に私はなり(パンデミックのとのタイミングでこれら三章を読めた僥倖)その想像だけで私は興奮した、そこに文字という形態である小説はどう可能なのか? 文字はとれら視覚聴覚の機材とどう違うのか?同じということはないのか?

この、人間を突き放した想像は小説を書くことと関わらないはずがない。映画・写真・音/楽で佐々木敦が言っていることは人間の能動性・主体性に深く関わっている。彼の関心は世間一般からはマイナーな作家・作品ばかりで商業的に大手が手を出すようなものではないかもしれないが、例えばジョナス・メカス(この本ではふれていないが)のようにマイナーとされる作家・作品こそ、ジャンルや国境を越えて行き渡り、深く浸透する。彼は商業主義サイドの映画・写真・音楽が描く世界の地図とまったく別の、喩えて言えばフリーメイソンのネットワークのような世界像を描いてみせた。小説はその外にいていいと考えていると小説はそのうち明治座とか帝国劇場とかで上演されている芝居のように、心ある若者の関心をまったく惹かないものになるだろう。

五章は二〇〇〇年以降くらいの、固有名では岡田利規以降の、日本の演劇の章だ。これは私は、何かまったく新しい、それ以前の演劇と呼ばれていたジャンルとの決定的な切断を感じた。「新しい」ことなどもうないと思われていた(少なくとも私はそう思っていた)この時代に、ものすごく新しい、未知のことが起きている、それに立ち会っている気持ちになった。

ここで描き出されているのは、ダンス・舞踏とはまた別の身体だ。演劇はどのように身体に負荷をかける/かけうるか? テキストが丸暗記されるとはどういうことか? 小説は書いた本人でさえ、書いた文章を丸暗記したない。丸暗記しないとと(実際にはごく雑にしか憶えていないこと)が前提となっているから、ストーリーが前面に出る。役者という恐るべき人たちは何万字というテキストを実際に丸暗記しうるのだ。テキストが演劇のように丸暗記されうるとしたらテキストはどういう様相を獲得しうるか?

小説を「読む」という行為は一気に激しい負荷を帯びる。

視覚(配置・移動 etc.)との連動、発話·息継ぎなどによる文章の多義化、暗記するという行為の思考と身体の連動、というより思考は身体の部分である頭だけでない身体すべてを動員する能動と受動が運然一体となった活動になる。……それら身体を通過させないとならない演劇の経験が、 小説を「読む」「書く」と いうことが記号の処理だけになりがちな静的な行為を離れ、「読む」ととは身体が文字・言葉・文章に蹂躙されるイメージになり、書き手と読み手はまったく別の緊張関係に入る。……それら未知の可能性を、この本は告げている。

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