【小説的思考塾vol.18】9/29(日) メモまとめ

9/29に行われる【小説的思考塾 vol.18   with 杉本有輝(小説的思考塾 事務局)】リモート+対面 にまつわるメモをまとめて公開します。

【  小説的思考塾vol.18   with  杉本有輝(小説的思考塾事務局) 】リモート+対面(※今回はリモートでの開催も再開し…
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その1

杉本が小説を書けない理由の一つは、小説だけ書こうとするからだ。 小説を狭く考えず、「文字による表現」「考えたことを文字にしたもの」と広げる。 小説を書くことより大事なことは、〈日々書くこと〉。日々書いている先に、小説や何かが生まれる。
ただし、それはメモや備忘録でなく、広い意味の文体(或るテイストや雰囲気)がほしい。 それによって読者は、これをどんな人が書いてるのか、ぼんやり想像し、共感が生まれる。
例えば、これら 阿久津隆『読書の日記』 柿内正午『プルーストを読む日々』 友田とん『「百年の孤独」を代わりに読む』
この人たちはみんなブログ【偽日記】を読んでいた。偽日記の古谷さんこそ、日々書く人で、みんなが〈日々書く〉生き方に気づいた、というのは言い過ぎか? 日記以外にも、 旅行記、紀行文、滞在記 観察記録、実験ノート 等々あり

その2

「杉本さん、カッコいいし、モテそうですよ!」 と、今日会った文芸誌編集長も言ってた。 いや、事実、杉本はまず、人としてみんなからリスペクトされている。
ところが 小説を書く杉本だけは、愚図だし、魅力も乏しい。 杉本はいろいろなことができて、みんなの注目も集める。しかし、小説には適正がない(←何しろ、全く努力しない)。 それに関わる時間ならいくらでも費やせる(=努力を惜しまない)ことが最大の適正なんだが、杉本はそれができてない。
小説で儲かることは稀だ。 表現のメディアとしての可能性も怪しい。 小説にこだわること自体、その人は時代遅れな感じがする。 つまりやっぱり小説は古い(笑) なのに、なんでいまだに人は小説にこだわるのか? 小説にはそれに応えうる”何か”があるのか?→”ある”という幻想だけじゃないのか?

その3

「第1作に全部注ぎ込め」と私が言うと、
「そんなことしたら次作のネタがなくなる」と言う人がいる。
その人は人の精神の活動・成長についてわかってない。
問題は見える風景の拡張だ。
第1作をちゃんと書いたら、その人の心の風景が、ガッと広がるから、有りネタを全部使えばネタが増える。 精神はバケツじゃないから、使い切れば切るほど、カラにならず、容量が増える。 つまり精神を、物質(可視的なもの)の比喩で考えたら、自分の成長をやめることになる。
ではどうやれば、全部注ぎ込めるのか?
(=ネタを惜しまないとはどういうことか?)
「ここで、これを書こうかな?」
という岐路では、極力書く。
「これは次に残しておこう」は、ダメ🙅‍♂️
(「書いたら、破綻するかも」という分別臭い選択もダメ。大事なのは踏み込む”勇気”)

その4

杉本は「書けない」「ここしばらく書けてない」等と言うのだが、 「書けない」という言葉は、プロが言う言葉で、アマチュアでほとんど書いたことのない人は、「書ける」「書けない」という言葉で、今の自分を考えるべきではない。
「書ける」「書けない」は作業(表面や技術)を意味する言葉で、プロ以前の人は、もっと重要なところで進めない状態にある。書くためにはそこまで自分の思考を深く伸ばしていかないとならない。
小説を書くのは、100mを無呼吸で泳ぎきるような、或る意味試練なので、「書けない」と言って、休んだら、もうやめるしかない。そして別のことを最初から書く。 書きかけを棄てることはなんでもない。書くこと自体はいくらでもできる人でなければ、書き続けられない。

その5

純文学からエンタメに移って賞をとった人がたいてい言うのは、
「自分は純文学では必要とされなかった」。
↑これは、需要と供給の発想だ。
その人は「必要とされなかった」のでなく、「自分の書きたいことが何かを、考えてなかった」
つまり純文学は、需給関係の外にあるのに、自分をその中でしか考えられなかったところに、その人の〈純文学適正のなさ〉がある。しかし同時に〈エンタメ適正〉はある。

とはいえ、純文学の方も実態は、
「いま求められている題材は何か?」と考えて書いている人ばかりなんだが。

その6

「書きたい気持ち」←まず、これが常に有る
だから「これ、書ける!」と思うと、1日で勢いで書き過ぎる
(1)そこで息切れして、終わってしまったり
(2)一気呵成に書いて、単調(一色)になったり
「これ、書ける!」と思った時に、その衝動をいかに乗りこなすか?

(2)をもっと説明すると、小説の構成要素は ・事情説明(話の経緯、人物同士の関係性) ・独白や会話や心理描写 ・人物の行動やその障害 ・空間描写・配置 これらの混合なんだが、勢いで書くと事情説明だけ、会話だけ等になる。 文体も単純な反復など、表面的な調子よさ(自己陶酔)に流れがち。
だから、毎日同じペースで少しずつ書くことは、長いものを書くための条件になる。
何を書くか、わからない間(長い年月)に「書きたい気持ち」を維持すること(A)
「これ、書ける!」となった時の衝動の乗りこなし(B)
書くための、A B両極を話し合いたい。

その7

これは、20年30年書き続けることができている小説家の大半に共通していると思うが、 若い頃は毎日、続きを書き出す前に、1行目から昨日書いた所まで、そのつど読み返して、続きを書いていた。
デビュー以前だけでなくデビューしてからも、5年か10年はそうしていた。そうしないと昨日の続きに入れない。 昨日までの続きを書くというのは、「書けるか書けないか、わからない」毎日が賭けみたいな力業なのだ。 小説で、ぼんやり流すところなど、1行もないのです。

その8

小説的思考塾は〈実作者自身の発信〉を目的としている。
文学として流布しているのは、小説を書いている過程に生まれた思考でなく、小説が完成した状態での思考だった。小説を完成形として語ってしまうと、書いている最中のためらいや戸惑いが見えなくなる。
小説を書いているあいだ、作者は「これは完成するのか……」という不安の中にずうっといる。
この道は行き止まりかもしれない……3ヶ月かかって書いたものは無駄だったかもしれない……。
その不安な日々に耐えて、小説は完成する。
たんに完成したもの(最初から完成が保証されたもの)として読んでいたら、小説の奥に脈打つ何かがわからない。
(ここで「小説」は表現行為・芸術全般に当てはまる。これを作った人は、「完成しないかもしれない……という不安が常にあった」という気持ちを持ってほしい)

その9

小説の文章とはどういうものか?

例えば、あなたの日記に、或る出来事を完璧に書いた数十行があるとする。それをあなたが今書いている小説に使うとして、その数十行をそのまま書き写していたら、あなたは小説の文章がどういうものか、分かってない。
小説の文章は、今書いている「その小説」としての流れや強度や圧による変形etcがかかっているのだから、日記の文章(日記に限らず既に書いてある文章)をそのまま、右から左に書き写すようなことは出来ない。
「だって、その文章は完璧なんでしょう?」
完璧という尺度は小説にはない。
小説の文章は常に、そのつどの生成で、完璧と見えた文章も小説になったときには変形を被っている。そうでないと、その小説の流れや強度に呼応しない。
杉本を含めて何人かの小説を読んで、そこが分かってないと思った。

その10

小説書くのに、小説だけ読んでたら、小説は書けない。
小説を書きたいという人が、小説以外のジャンルの本や人を知らなすぎる。

その11

新人賞でデビューはしたものの2作目が書けない人が、編集者から、
「最近の小説を読んでますか?」
と言われたらしいが、その編集者は論外。
→→その話を妻にしたら
「最近の小説なんか読んでるようじゃダメ、という意味なんじゃないの?」
という直球すぎる答が返ってきた笑

その12

いま若い書き手の傾向として、女は男をディスってもいい、女と同性愛者は自分の性行為を露骨に書いてもいい。 私はその内容を否定しないが、「今は○○○○なら書いていい」という時流に乗った判断が気に入らない。 小説家は時流に乗るものじゃない。

その13

(メッセージでなく、思考の生成として)
世界の平和や地球環境を回復させる思考を生み出すための小説

紛争や環境破壊を原動力にしている資本主義に貢献しない小説

その14

私が前から言ってる、
「リンちゃん、かわいいねー❣️」
と言って、リンちゃんのお腹に顔を埋めた時の、
心と体の全体で、弾ける笑い

追加メモ

柳美里は『罪と罰』に感動して、全巻を書き写したと、昔、井上ひさしとの対談で言ってた。

私はデビュー最初の10年間は、自作のワンセンテンスを見れば、どの作品の何ページか、指せた(毎日書き出す前に最初の1行目から通して読んでいたので、自然と憶えた)

★自慢やマウントでなく、必死だったという話(みんな、いろいろな形で必死だったけど、それは公言しないのです)