表現について、【小説的思考塾vol.17+山本浩貴】の発言の補足や訂正……

このあいだの対談で、私は山本浩貴が考えている「表現」について大きな捉えそこないをしていた。どうしてそういうことになったのか、、、「表現」について、捉えそこなったところでの考えもまた面白いから、空間を共有して、一定の時間を使って喋るのを聞いていると方向を見失うのだが(人が喋り、それを聞く時間が0秒でない、というのは、コンサートや演芸的に気持ちが誘導されるから、それを聞きつつ考えることの障害にもなる)、

山本浩貴の「言葉による表現」が本当に必要なのか否か、という問いは、言葉で人が戦場に駆られたり、SNSで傷ついて自殺したりするようは話ではない、それは時代(社会)の方向性に言葉が同調した結果の現象だから表現としての価値はない。言葉(表現)はそれに対峙するものでなければならないーーそこは「なければならない」と、私らしくもなく、強い気持ちで言わなければならない。
今も書いているうちにまたわからなくなってしまったんだが、山本浩貴の思っている「言葉による表現」は、それがこれこれこういう効力を持つという個別のことでなく、存在者に対して存在のようなことだと思う。
つまり、言葉を言葉たらしめる表現、言葉の力を信じてもいいと思える表現(それは当然、言葉による実際の表現によってなされていなければ意味がない。これは循環論法とかではない。)ーーと考えると、私はやっぱり『失われた時……』のパリ・オペラ座に入場し、着席し、場内をひとわたり見回したあと、私と目が合った瞬間のゲルマント公爵夫人の表情に尽きる。ここには言葉による芸術の持つ、大きな肯定がある。
人は大きな肯定を感じるとき、自分がこれまで経験してきた肯定の記憶・幸福な記憶を総動員する。肯定を今この時間に感じられるのは記憶がそれらを総動員するからだ(肯定それ自体はいま自分の前には現実の物質の世界には何もないのだ)(いや、まさに世界があり、自然があり、生きていることそれ自体が肯定なのだが、この肯定もまた無条件で誰もがそう感じているわけではなく、或る手続きや回路を要する)。
だから、そのようなことが、いま可能なのか?

いや、そうではないか、山本浩貴の『無断と土』や『pot hole(楽器のような音)』を思い出すと、主人公がいてその人がどういう物語を生きるかということに関心はなく、言葉はどれだけの量と厚みを持つことができるか、それがそのまま生の在り方に強迫的に侵食しうるか、というようなことだ。
それは確かに、大江健三郎の別の宇宙があるという人生(生命)の背景・基盤・支持体であり、ホラーというのも、日常語と常識的思考で説明されない世界(空間・時間・宇宙)の侵入だ。
短歌ということに戻すと、「短歌が戦場に行く若者を正当化した」そういう歴史がある前提でいうと、短歌の何が「生きる・死ぬ」の精神の動力みたいなことと繋がっているか、短歌を構成する言葉にそういう力があるなら(あるのだから)言葉には生を別の相に開く力がある、それはいかにすれば可能か、ということだ。

[→表現は、人の生を削る圧力に対して、
(1)〈それに真正面から対抗するもの〉
(2)〈それを無力化するもの(そんなものはもともと通用するところでしか通用しないんだから、その局地限定ぶりを暴いたり、本来が無力であることを指摘したり)〉
(3)〈それを遠くに追いやる仕方・さっさとそこから逃げる仕方〉
それらを考えることやその実践でなければならない。]
[→ついでに言っておくと、日常を舞台にした事件らしい事件の起きない小説は保坂以外にもたくさんあるのに、保坂作品がことさら「何も起きない」「日常べったり」と言われるのは、私の権威嫌い・権力嫌い・支配嫌いをその人が無意識に感じとるからではないかと、私は推察している。→だから、その人は何も起きないことが退屈なのではなく、小説一般の流儀に反して、何も起こそうとしない不遜な態度が不愉快なのだ。]

大江健三郎の別の宇宙(分岐点で私がいないことになった方の宇宙)があることは人が生きることの背景・支えとなるはずで、その世界(宇宙)を絶えず可能性としてあらしめる思考は、たんに言葉でなく、言葉の使用法つまり、文の構文・統辞法のレベルでのことだと想像する。理屈としてはそうだが、その構文をいかに作り出し、日常の語りにしてゆくことがどうすれば可能か、小説(表現・芸術)とはそれを無謀さにおいて実践することと、考えていいのではないか。
[一例を挙げると「被災地に支援に行って、私の方が力をもらった」「猫を飼って、人間の方が癒される」これらは1970年代には考えられなかった、逆転の論法だが、いまは普通になった。これは論法の転換の実例として重要だと思う。小説はそういうヴィジョンなり道筋なりは示しうる。]
結局、私はここでこのあいだの対話の前に戻ってしまうのだが(何度も戻っては進むというやり方しかない)、『万物の黎明』が言ってることは、「歴史は支配者の歴史(変遷)として書かれてきた」それは「英雄の歴史」でもあり、小説が主人公という中心かつ完結した像に依拠するかぎり、小説は支配されることを是認する(つまり支配者を称揚する)ことになる。
私の一つの試みが『残響』(コーリング+残響)だった。そこでは仕草や記憶が蝶番となり、小説は像としての人物より蝶番が優位となるはずだった(どこまでそうなったか……)……

**結局、道に迷って、辿り着けず(笑)