2023.12.21 小説的思考塾vol.14のためのメモ(ツイート)まとめ

「私が死んでも世界はある」
と私が言うと、
「自分が死んだあとに世界があるなんて考えられない」
と反論する人がいる。
世界は私の死とともに消滅するーーそう考える人は、世界が不確かなのでなく、私(自分)が不確かなんじゃないか。

世界も私もわからないこと(知りたいこと)だらけだが、
「私は何(何者)か?」
「世界は何(どういうもの)か?」
という問い以前に、
「私はここにいる」
「あの人がいる(いた)」
「世界がある」
という、「在る」ことの素朴な驚きが私は大きい。

「在ることの驚き」が、「在ることの意味」を吹き飛ばす。つまりそれは、
「在ることの驚き」それ自体が、「在ることの意味」の説明となっていると考えられないか?

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私が死んでも世界はある。同様に、私が生まれる前から世界はあった。
一方、「世界5分前仮説」というのがある。(詳しく知りたい人は、wiki等で検索してください)
世界はあなた(私)が生まれる前にはなかったどころか、世界は5分前に造られた。あなた(私)の記憶も5分前に移植されたものであり……
私はこの「世界5分前仮説」が大嫌いなんだが、私にはこれを論破することはできない。
論破することができなければその仮説は正しいのか?
そんなわけはないんだが、
「論破できないなら、それを認めるしかない」と、詰めてくる人がいると、私はタジタジになる。
そこで、どうするか?(たぶんこれが今回の枕)

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谷川俊太郎が大岡信を追悼した詩の冒頭

本当はヒトの言葉で君を送りたくない
砂浜に寄せては返す波音で
風にそよぐ木々の葉音で
君を送りたい

ある人は「ヒトの言葉」を散文のことではないかと解釈していた。
そうじゃなくて「ヒトの言葉」は「人の言葉」「人が書いたり喋ったりする言葉」です。
その通りのことが2行目以降に書いてあるのに、深読み?して、奇妙な迂回をしてしまう人がけっこういる。
古武術で、達人が力を入れずに相手を倒すのを見ると、「文学」によって不自然に力むようにされてしまった〈人間ー言葉ー世界〉の関係と同じだなと思う。
言葉をおおらかに使えなくなってる。

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このあいだ半年?前に猫が死んだ友達と会った、
友「まだ、全然立ち直れてなくて……」
私「猫がいなくなった空白は猫しか埋められないんだって、みんな言うよ」
友「でも、そういう気持ちで飼ったら、新しい子にも前の子にも悪いと思って……」
私「大丈夫!
あなたのその気持ちは、目の前で暴れる子猫が、全部吹っ飛ばしてくれる!」
暴れ回る子猫の存在が、きっと前の猫との記憶に新しい風を吹き込んでくれて、記憶も過去も活気づく。
自然のもたらす解決は唐突かつ一挙的で、言葉による思考を軽々と超える。

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文学と哲学は別のものだと思っている人がたくさんいるが、それは違います。
文学も哲学も、世界があることの驚きが思考の原動力となっている。
文学についてのありがちな勘違いは、
私が生きる悩みを吐露して、あわよくば共感を得たいと。
共感してもらっても、そこに解決はない。(もっと困った人は、解決したら、もう書くネタがなくなると考えている)
悩みは目を自分(内)にばかり向けさせて、外に向かせない。
というか、外に向けば、悩みは消えている。
というか、たいていの悩みは、もともと人から見れば悩みではない。
→だから、そんなものをネタにして何か書いても意味ないのです。

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「世界があること」は、日本文学でたぶん1度も関心の中心になったことがない。不思議なことです。
『プレーンソング』が今でも若い人に支持されているのは、登場人物が世界に「素」で向き合っていることを感じるからだと思う。
だから、響く人にはビシビシ響くが、それは少数派で、大半の世界に関心のない人には、ただ「何も起きない話」でしかない。
文学・小説・演劇……芸術全般において、「大勢の関心」になびく人が多いけれど、それは「広い門」つまり、滅びに通じる門だ。
芸術が「狭い門」(=生存に通じる門)を目指さなくて、誰がそれを目指すのか。
というか、表現する人は、本来「狭い門」にしか関心がない。

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世界はつねに在るのでなく、或る時あらわれる。
世界は人間に先んじて在る。
世界は過去-現在-未来を超えてあるが、或る時にしかあらわれない。

世界は部分の総和として在るのでなく、一挙に全体があらわれる。
(郡司ペギオ幸夫は、「全体はない」と言う、それのこと)

自然はすべての生き物の力の源泉だ。
すべての表現も自然が力の源泉になっているはずだ。
私はここで、世界と自然を混同してないか?

芸術行為は、本来の生を生きるための活動だ。