涙を流さなかった使徒の第一信【後編】(『小説、世界の奏でる音楽』4)

ここまで書いてまた日付が変わるのだが、この一行の余白のあいだに私は、友人Kであるところの樫村晴香が書いた『Quid?――ソレハ何カ 私ハ何カ』 という楳図かずお論(「ユリイカ」二〇〇四年七月号)の中で、まさしくオリンピアの沈黙についての分析が書かれていることを発見した。
『Quid?』の中に『砂男』のことは一言も書かれていないが、楳図かずおが描く美しい女性を「美しい女性は異界に属し、あるいは既に死んでいる」と説明 して、それを怖れる男性との関係がこのように書かれている。

楳図かずおの異様に美しい女性たちは、力強く、能動的で、敵意に満ち、欲望のヒステリー的断念の帰結として、世界の外に立つ視線をもつ。(略)それが本質的に指弾するのは、欲望、あるいは人生、という欺瞞であり、人間の誕生、人類の誕生、そして人類の存在そのものという「欺瞞」である。
 そして他方、男性は、欲望の欺瞞や禁圧ではなく、欲望そのものの不能の中で、愛と人生を指弾するヒステリー的身体に、目を見開かされ、釘付けとなり、停止した時間と身体の中で剥奪される。剥奪する女性の身体が人生という欺瞞を指弾するとき、隷属する男性の視線が直面するのは、本質的には自らの誕生という、単なる性的外傷の彼方の、存在の最奥の外傷である。自らの誕生、自らの存在ほど、人間にとって、自らの意にならないものではない。その意にならないものが、外傷的視覚として到来し、その外傷的瞬間としてのみ、自らの存在が可能となる。
(略)女性は自らの美しさに異様に執着するが、それは同時に、今この瞬間への異様な執着と、時間そのものの拒否である。
 これがまず楳図かずおの世界の前提であり、それにつづいて『わたしは真悟』(工業用の腕だけのロボットが地球全体に匹敵するかのような意志を持つという、読んだら誰もが忘れられないあの話だ)の、少年・悟と彼が愛する少女・まりんの関係が分析される。まりんは記憶を失っていてしゃべることができない。

少女の、この今への固執は、異界の美しい女性たちがこの今に執着し、自らの一瞬の美しさに執着するのと、同系列のものである。それは女性の側の欲望ではな く、外傷的視覚への固執という作品の構造そのものの欲望であり、転移を欠いた存在が、言語と時間の外側に留まり続けようとする欲求だ。
 だが、少女は異界の女たちとは異なり、ヒステリー的欲望、すなわち存在を時間の中に登記しようとする欲望、つまりごく真っ当な「思いをとげようとする」 主体としての欲望をもたず、反対に、意識を失う。そのことで、少年と少女は出会い得る。美しい少女は少年の専一的対象であり、少年の視覚であり、彼が父と 言葉とをもたない限りは、唯一の彼の存在であり、つまり彼自身である。父親が来るべき場所に少女は滞留し、それゆえ言葉は、少女から渡されるしかない。こ の言葉は、出所不明な声、そして本質的には、語り手のない文字としてのみ渡される。

 オリンピアの沈黙が何故かくもナタニエルにとって大きなことだったかということが傍線部に書かれている。樫村晴香の文章は長く引用したところでわかりや すさが増えるわけではないが、傍線部とその前後ぐらいだけでは逆に当たり前すぎるようにも見えて、何か重要なことを言っているよう感じられないのではない か。しかしこの部分だけでも、私がすでに書いた「それは何の沈黙を意味するのか?」という問いが間違っていることがわかる。オリンピアの沈黙は何か(たと えば超自我)の沈黙でなく、「言葉以前」ということだ。引用をもう少しだけつづける。そうするともっとそれが明確になる。

父から与えられることのなかった、父の言葉。それは「私は何か」という言葉である。それは「私は何か」という問いへの答であり、その答えには「私は何か」 と書かれている。(略)
 この言葉は外傷としての誕生の場所、外傷の視覚から到来し、それは見開かれた目、世界のイマージュとして到来した私自身、そしてまた私自身であるこの世 界の視像が、一瞬そこから身を起こし、他者に向けて、「それは何か」と、叫びかけようとする動きである。それは言葉の手前で、世界そのものが痙攣し、「何 なのか」と手を伸ばして、人間になろうとする瞬間だ。それが父の前で発せられ、父の姿が発するなら、「何なのか」という叫びは、「それは父である。それは 私でありお前ではない、お前は真悟である」という声を聞くだろう。叫びは「私は父である。父は私ではない」という答を生み、世界と私は分離するだろう。そ して声は分化し認識の道具となり、目は世界そのものから世界を見る意識の穴へと縮小するにちがいない。

 私がこんなにも長く樫村晴香の文章を引用するのは、ここで言われていることの大半をわかっていないからだ。誰か私より理解する人の考えをあわよくば聞こ うという腹づもりということだ。オリンピアの沈黙との関係で傍線を引いた箇所だけはわかった気になる。オリンピアが言葉をしゃべらないから、ナタニエルの 中で世界と私との分離が起こらずに済む。「私は何か」という言葉もナタニエルは持たずに済んでいると考えてもいいかもしれない。

 小島さんが死んだことが私には悲しくなかった。
 樫村晴香の文章はフロイト-ラカンの流れに位置し、すでに書いたように私はここのところフロイトとラカンの本を気をさんざん散らしながらも私なりに熱心 に読んできたので、私は精神分析で材料を挙げるようなつもりで自分のやってきたことを思い返してみようと思う。
 精神分析の真似事をする批評が私は嫌いだし、信用もしないが、それは私が理解しているかぎり精神分析によって浮かびあがる欲望とか意図というものは、ふ つうに肉体を持って人格としての一貫性も持っているとされている人間の欲望や意図とは違うものなのに、真似事の批評では「作者の真意はこうだった」「この 人物は母のことだ」等々、人格をもうひとつ別の人格に置き換える作業でしかないからだ。それは脳を解剖して脳の中に住む人間の形をした小人を探し出すよう なものでしかない。
 社会的に生活しているこの個人としての人格は意図して嘘をついたり本当のことを言ったりするが、精神分析で言う欲望や意図はそのようなものではない。無 意識は人間がふつうに嘘をつくように嘘をつくわけではない。いわゆる本当とか真意とかがあるわけでもない。ではそれはどういうものか? と言われると、私 も説明はできないのだが(ラカンは、主体とは言語の体系の中にあるとか、主体とは他者の中で発見されるというような言い方をしていた気がするが、その意味 が私にわかっているわけではない)、精神分析の真似事の批評は人格を同次元の単位でしかないもう一つの人格で置き換えるものでしかないことだけは間違いな い。

 小説は言語の世界のものだということはすでに書いたが、私自身はそれ以上に、
「本は死者の世界に属する」
 という実感を持っている。
 理由はごく単純で、本屋の棚では生きている人の本もホメロスやダンテの本と同じように並べられるからなのだが、もう一つ、本の中で使われる言葉、つまり 書かれた文字は、すべての人に対する形容を死者にする形容と同じ次元でしか使うことができない。
 私がとても親しい友人を形容しようとして、「あいつは突飛な行動をする」と書いても、「突飛」という言葉は彼の肉体のように彼しか持っていないものでは なく、他の誰に対しても使うことができる。人類がもし歴史の早い時点でその矛盾に気づき、そんな言葉を使うわけにはいかないと考えるようになっていたら、 人の独自性を形容するためにはその人のためのオーダーメイドのような言葉をいちいち作って、
「あいつはののびっねかだ」
 とでもいうように、彼にしか使われない形容をするのがふつうになったかもしれないが、言葉というのはそういうものではない(音楽はそういう風なインスピ レーションで作られるのかもしれない)。言葉というのはすべての人間を一般性に入れる。それは無機的に死者の名前が並ぶ名簿と同じことで、つまり一般性と は死のことなのだ。本というのは私にとってまさにそういう死の形象化なのだ。
 私は小島信夫の『寓話』を個人出版した。小島信夫を私自身の手によって、死の形象化であるところの本の中に入れたということだが、これは行為としての表 面的なことであり、誰かにこのことだけを指摘されても、私は精神分析の真似事のこじつけであるとしか思わなかっただろう。
 私が『寓話』の個人出版を意識するようになったのは、二〇〇五年七月十二日に青山ブックセンターで小島さんと対談をしたあとのことだった。
 その対談を私が小島さんに電話で依頼したのは五月中旬か下旬だったが、依頼して日程まで決めておきながらも私は、「小島さんに何かあって対談ができなく なる可能性はじゅうぶんにある」と思っていた。家族の人や他に親しくしている人たちはそうは感じていなかったかもしれないが、私には小島さんはいつ何が あってもおかしくないほど弱々しく感じられていた。
 対談で私の話は『寓話』とそれと同時期の『菅野満子の手紙』の二作を中心に進むことになるのだが、そういう話にしようと決めたのは対談の一週間前ぐらい のことだった。別に「これが最後の対談になるかもしれない」という思いから『寓話』と『菅野満子』にしたわけではなく、「めったにない機会だから、ここは やっぱり、とっておきの話をしよう」というつもりだ。
 そのときの小島さんの話は、奇跡的に素晴らしく、会場にいた人全員が感動したと言っても言い過ぎにはならないが、それには小島さんが弱々しく見えたこと が大きく作用していると思う。いかにも九十歳の老人らしく弱々しく、訥々としゃべるところが良かったのだ。
 その対談があまりに良かったから、私はもう一度だけ対談をやって、それをDVDに記録しようと思い、冬の寒い時期を避けて、(それまで小島さんが無事か どうかわからないが)三月二十五日に世田谷文学館で二度目の対談をすることにして実際それは実施された。しかしこれは大失敗だった。小島さんが妙に元気に なってしまい、堂々としゃべってしまったのだ。
 七月の対談のとき、小島さんはまだ『残光』を書きはじめていなかった。「弱々しく見えた」ことにはたぶんその心許なさみたいなことが影響している。小説 を書きたい気持ちはあるのに、何をどう書いていいのかわからない……というとき小説家は心許ないものなのだ。
『残光』はその直後から書きはじめられることになる。対談の会場には若い人たちがいっぱい集まって、みんなが熱心に聞いていて、これだけ多くの若い人たち から支持されているという手応えが『残光』を書く後押しにならなかったとは考えにくい。
『残光』では『寓話』と『菅野満子』がかなりのページを割いて取り上げられているが、対談で私がまともに取り上げたことによって(その後九月になって『寓 話』の個人出版に向けて具体的に動き出したことも手伝って)、小島さんはこの二作の素晴らしさをようやく信じるようになったのだ。
 夏と秋をかけて『残光』が完成し、二〇〇六年一月七日発売の「新潮」に掲載された。その同じ一月七日に私は個人出版の『寓話』のためのあとがきの原稿約 二十枚をお宅まで受け取りに行った。約一時間お宅にお邪魔したそのあいだ、小島さんは『寓話』の、とくに、伝記作者について書いた本篇部分とは異質のまえ がきの部分がいかに全体を暗示しているのかという話を力説した。その「全体を暗示している」という言い方はいかにも小島信夫であり、私にはその意味はいま だによくわからないのだが、とにかく小島さんにはここ二、三年、あの七月の対談のときまであった心許なさはかけらも感じられず、「(年寄りには何が急にあ るかわからないとは言え)まだ四、五年は大丈夫みたいだ」と私は思った。
『寓話』は完成目標にしていた二月二十八日、小島さんの九十一歳の誕生日にあたる二月二十八日の前日に刷り上がった。――九月にはじめた個人出版の完成目 標を二月二十八日の誕生日に設定するというのは、作業としていかにも自然ではあるが、それは本当に「誕生日」だったのか。誕生は必ず死が対になっているも のだ。
 完成した『寓話』はすぐに小島さんにも宅急便で送ったが、作業に関わったメンバーの宛名入りの署名本を作ってもらいに行ったのは世田谷文学館の対談の四 日前の三月二十一日だった。そのときも小島さんはとても元気で、思考力や記憶力もとても充実していて、私はあらためて「まだ四、五年は大丈夫」と思った。
 世田谷文学館での対談はその元気さが裏目に出てしまったわけだが、私はもう一冊の『菅野満子』の方の個人出版をやるべきかどうか、『寓話』が完成してか らずうっと考えていた。金銭面では黒字になるだけの冊数がすでに売れている。しかし馴れない仕事のせいもあって、本の完成前二、三週間はあんまり自分の仕 事ができなくなってしまう。なんでそんなに割かれるのかわからないのだが、とにかく時間とか仕事への注意とかいろいろなことが割かれる。しかし個人出版は 現実にこうしてできることがわかったし、やってみるとそれなりにおもしろい。しかし労力と時間が割かれる……。
 小島さんが倒れたのはそんなことを考えていた頃だった。小島さんが倒れてしまったからもう『菅野満子』には新しいあとがきはつかない。それはたいした問 題ではないが、『寓話』は制作費に対して黒字になっているとはいえ、何かが広がったという実感がない。もちろん私自身熱心に『寓話』を宣伝したわけではな いにしても、基本的に私のこの連載を読んでくれている読者しか買ってくれていないような気がする。その人たちは『菅野満子』を読まなくても、講談社文芸文 庫に入っている『抱擁家族』と『うるわしき日々』と初期の短編集を読むことが先決なのではないか。それに本当にもっと読みたいのであれば、こまめに古本屋 をチェックして歩けばまだまだいろいろ手に入る。そういう本が出回っているあいだは『菅野満子』を出す必要はないのではないか……。そんなことよりも樫村 晴香の論文を集めて、樫村がダメだと言っても無断で出版してしまう方がいいんじゃないか……。
 と、ここまで考えたところで、
「個人出版なんかして、樫村にまで小島さんと同じように倒れられたら困るからやめておこう。」
 という考えが沸いて、私は樫村晴香の論文集の出版という考えをすぐに撤回した。
 もちろん、このように時間を追って考えていたわけではなく、いろんな考えが細切れに出ては引っ込み出ては引っ込みしているうちに樫村晴香論文集のことを 考えたのだが、とにかく問題はここだ。
 今回のこの連載をこうして書いたり、書くために樫村晴香の楳図かずお論を読んだりいろいろなことをするまで気がつかなかったのだが、私のどこかは、
「個人出版をしたから小島信夫が倒れた。」
 と思っている。「個人出版なんかして樫村にまで倒れられたら困る」という考えは、そういう風に考えていなかったら生まれない。私は「小説に書く」とか 「本にする」ということに対して、一種迷信的な怖れを持っているのだ。そういう怖れを持っていなければいまどき出版とか小説とか、そんな割に合わない仕事 に固執するわけがない。本は経済活動の中でただ商品として流通する物ではなくて不透明な何かを持っている。というと少しはわかりやすいかもしれないが、私 の中にある迷信的な怖れは、きっともっと幼稚で根拠のないものだ。
 私のデビュー作である『プレーンソング』のラストちかくの海岸のシーンで、犬を散歩させている人が出てくるがその犬の名前は「ジョン」と言い、それは私 が高校三年生のときに死んだ犬の名前だ。ジョンは五年しか生きられなかった。だからせめて小説の中で長生きさせてやろうと思って、そういうシーンをジョン という名前で書いたのだが、『プレーンソング』が「群像」に掲載される直前の四月一日に私が高校生のときから実家で飼っていたポチが十六歳十一ヵ月で死ん だ。『プレーンソング』の「群像」の校正刷りがあがってきた頃はすでに老衰で庭にうずくまっているだけで、その世話をしながら私は、
「本当になってしまった。」
 と思っていた。老衰だから、小説に書いたり本になったりすることの力を怖れるようなことではないかもしれないが、出版と死という二つがちょうど同じ時に 起こったということは私の迷信的心情に触れた。
 なぜ人が死ぬ小説を私が書かないかということもたぶんそこと関係しているのだが、それはともかく、私は大人だから「そんな迷信、馬鹿気ている」と自分に 言い聞かせ、本も何冊も出るうちにそんな気持ちのリアリティもなくなっていたのだが、『カンバセイション・ピース』の中で唯一人はっきりとモデルにした従 兄が自殺して、私の迷信はまたくすぶりはじめた。
 しかし、『寓話』の個人出版は私の中でいままでずうっとこの迷信と結びつかないまま来ていた。いまはじめて結びつき、
「やっぱり個人出版したから小島さんは死んだのだ。」
 と思ったわけではない。そんな笑い話を書きたくてこれだけの量を書いたのではない。私は私として、小島さんの死を確認するために『寓話』の個人出版を思 いついたのではないか、ということだ。
『寓話』を個人出版する直接のきっかけとなった青山ブックセンターでの対談のときに小島さんが弱々しく見えたと私は書いた。その時点で私は、大げさに言う と呪術的な儀式として、自分の力で小島信夫を本にするという葬式をすることにしたのではないか。言い方を換えれば、小島信夫という作家を私自身の手によっ て、文学史に残るすでに死んでいる作家群の中に入れたということだ。
 死ぬことと文学史に残る作家の一員になることは同じ意味だ。事実の話でなく、精神分析が言う意味での私の心の中で。
 だから現実の小島さんが死ぬ以前に私の中での小島信夫は死をすでに完了し、小説家として言語の中への移行も完了していた。だから私は倒れたと知らされて も何もショックを受けず、死んだと知らされても涙一つ流さなかったのではないか。
 繰り返すが、これはふつうにそうだとされている人格の次元での私がしたことではない。私にはそんなことをしたという自覚はない。ふつうにそうだとされて いる人格の方の私は、『寓話』がもっと広く読まれてほしいという単純な動機で個人出版しただけだ。そして、そのふつうにそうだとされている人格の方の私 は、精神分析で言う意味での〝私〟が〝喪の仕事〟をすでに完了させたということを知らないから、小島さんが死んだことが少しも悲しくないことが不思議で仕 方なかったのだった。

 ただしこれは精神分析の本を読みかじっただけの人間の分析だからアテにならないということを付け加えておく必要がある。自己分析というのもまたさらにア テにならないし、この分析がすっきりしすぎていることも気に入らない。すっきりしすぎているから自分では物足りなく、竜頭蛇尾になったという気持ちが強く もある。
 だいたいこれでは何故あれだけの枚数を使ってチャッピーのことを書いたのかが何も説明されていないし、あのときに私に涙を流させた花がどういう領域同士 を繋いだのかも説明されていない。あの花が繋いだ領域の一方にこの私の迷信や儀式があり、別の領域に社会的か現実的かどちらかの死がある、なんてことにな ると私はもっと納得できる気がするのだが。
 あの花によって私はチャッピーに涙を流し、小島さんには涙を流さなかった。私はチャッピーの話の次に脈絡もなく『不気味なもの』と『砂男』を持ってきた のだが、『砂男』は子どもの目に砂を入れる話であり、フロイトはその眼球不安を去勢と同義であるとしている。「涙を流す」ことと「目に砂を入れる」ことが 無関係だとは思えない。涙を流せば視界の機能は弱まるし、涙を流している姿は人に見られたくないものだ。チャッピーを埋めたあと、私はFさんの奥さんに涙 を流している自分が見られたくないと思った。そこには弱さという去勢に通じるものがありはしないか。
 それに対して、私は小島さんには一度も涙を流していない。父親と同じ位置を占めるであろう小島信夫に対して、私は去勢されることを断固拒否したのかもし れない。遺作の『残光』にはひじょうに多くの人の死が報告されている。多くの死を書いて、「しかし自分はまだ生きている」ということを、小島信夫が誇示し ているように感じるのは私だけだろうか。そう感じるのが私だけだとしても、とにかく私の中ではそうなっているわけで、そのように自分の存在を誇示する師と 仰ぐ小説家の前で、私は「屈するものか」と主張しているのかもしれない。
 そのように、まだいっぱい説明されていないことがある(たとえば私の書き方では、肝心なことが聞けないTさんの描写はどこか小島信夫に似ていないか?  とか)。しかしそれでもなお、この分析が的外れでなかったにしても、これはあくまでも私の中だけで起こったことであって、小島信夫を社会の中で文学史に名 を連ねる作家群の中に位置づけるという作業はまだ何も手がつけられていない。具体的に何をすればいいのかもわからない。
 とにかくこれが、使徒としての第一信だ。
                   (つづく)