『現代思想』総特集=荒川修作+マドリン・ギンズ アトリエの毛沢東

『現代思想』総特集=荒川修作+ マドリン・ギンズ アトリエの毛沢東その精神病的=分析哲学的表象システムと上下反転運動の論理的解明

アラカワは狂っていると私は思う。
あるいはアラカワは狂っているというマトリクスに発することで、人は彼の作品と言葉が示唆する真理の普遍的性格を最もよく理解する、と言った方が、いくぶんかエレガント(社交的‐神経症的)だろうか?
ここで狂っている、というのは、言語と表象の精神病的な使用法のことであり、その意味作用すなわち作品の表象メカニズムにおける、隠喩の完璧な排除のことである。それは美の完全な否定へと帰結する。
彼の表象体系は、あらゆる仄めかし、諧謔やユーモア、迂回や抑圧、隠されたものが醸し出す誘惑、快楽、恐怖といったものとは無縁であり、いかなる留保もない意味作用の明晰さ、絶対的で直接的な開示としての意味の分節、情報の伝達をめざしている。彼の作品に「目をつぶれ」「進め」「登れ」と記してあるなら、 それが伝えることは「目をつぶれ」「進め」「登れ」ということであり、人はそこで「目をつぶり」「進み」「登ら」なくてはならない(1)。「目をつぶれ」という<表象>に意味があるとすれば、それは人がそこで目をつぶる、ということであり、それが唯一の意味内容‐シニフィエである。アラカワがくり返し語ってきたように、作品は同時に実践であり、行為である。
しかし人は、表象の一般的な使用法、とりわけ芸術作品という<美的表象>の使用法に自らの本源的体質によってなじんでいるので、そこで目をつぶることが 「何を意味しているのか」、という考え(や無意識的感情)から、抜けられない。意味はすでに完全に与えられているのに、である。
かなり昔、マドリン・ギンズはアラカワについてこう語っていた。「アラカワは何らかの概念に誘惑されるような安易さをもたず、彼がいるその場、その位置で、物事の<全体>を示す」。
すなわち彼の作品を前にする者は、他の場所‐概念を手がかりにせず、そこにこそ全体があることを自らも<実践>することを求められる。この実践とは、アラカワという作品、作品という表象‐意味作用の実践であり、要するに作品というその場で許された唯一の意味作用が、それを前にする者において駆動し現前し、 そこで作品の存在が可能になることである。
絶対的に明晰な意味作用、という、表象に果たされた規則は、意味作用と一般によばれる複数の要素の連結において、その結合回路を厳密に確定するので、表象を前にする者の思考、つまり意味作用は、それ以外の回路を辿ることを許されない。これは作品の絶対的専制であるように見えながら、反対に、作品は結合回路 の曖昧さ、つまり他の結合の潜在的可能性、あるいは結合‐表象作用そのものの曖昧な宙吊りと永久的潜在化(これらが美の普遍的作用である)を、自らと読解者に許容しないゆえに、読解が唯一の結合‐配線を離脱するや、その存在はたちどころに危機に直面する。絶対的現前、という形の表象の規則は、常に絶対的消失と裏あわせにあり、前者は後者に不断に飲み込まれつつ、その場の身体的支出という、ほとんど偶然的な力の同意によって、自己を支える。
アラカワの多くの作品は、明確で幾何学的な線と、命令的な画然さで出現する言葉から構成されつつ、しかしそれらは、逆に背景の途方もない白さと空漠、絶対的なブランクを見る者の脳裏に刻む。それは幸福とは無縁な空間である。
幸福という猶予された時間とは反対に、そこではアラカワが常に語っているように、「私には(残された)時間がない」。
ここで空白は何ものにも奉仕しない絶対的空漠であり、意味と、意味の留保を語っていない。それが語るのは人がその空白で“死なないために”、身体を支出するように、という命令であり、そこで求められるのは、点と点を、曖昧な微笑を残すことなく画然と連結する実践である。
それを結ぶなら、すべては生きつづける。
生きつづける、とは、意識があることであり、すべてとは、意識のことである。
アラカワの世界に無意識はないので、(アメリカで理解されている限りの)フロイトの理論は、彼の世界に関わりをもたない。
もし人が、彼の作品の空白に何らかの「詩的なもの」を見いだすなら、それは空白を何かが到来するための、猶予と希望の時間としてねじ曲げているからであり、人はそこで作品でなく、その彼方=手前の自らの無意識のみを読み込み、その中に逃げている(2)。これは空白=死から身を逸らすための、ありきたりの神経症的防衛であり、とはいえそれを、彼らは常に芸術作品に期待する。
ここで人は、アラカワが当然好ましいものとは感じていない、「作品とは死の前にかけられた(半透明の)ヴェールである」というラカンに発する<隠喩>よりも(この言葉は、国立現代美術館の付属書店で常に平積みにされた『芸術の諸理論』なる、プラトンもアルベルティもマルクスも、およそめぼしい理論家たちの諸理論を百数ページにまとめた本にも記されているほど、今日有名である)、むしろ「美」の一般的機能は<躁的防衛>に他ならないという、メラニー・クラインの簡単な表現を思い出した方がいいかもしれない。
つまりアラカワの作品の空漠たる白が、死であるとしても、死は、作品の空白によって指し示されるものとしてあるのではなく、端的にそこに出現している。そ れは作品の向こう側にあって、隠蔽の効果により魅惑するような神経症的な死ではないし、同時にそれは、記された記号の外側にあって結合と置換の変換作用を拒んでいるので、作品という表層でさえない。
神経症の手前、もしくは彼方にあり、しかしそれ以上に決定的に、自らを守る皮膜と表層を欠いていること。
アラカワの世界で端的に現前する真っ白な死と、他方での、身体の絶対的支出によってのみ支えられる論理的覚醒が、いかなる境界面や皮膜も経ずに、双子のよ うに直に対になっているとすれば、それは死を隠蔽し誘惑の効果を配置するような、神経症的な緞帳を作品の「戦略」がもっていないという以前に、生を死か ら、身体を死から分離するような基本的な生体膜が、そこで排除されているからである。
アラカワにおいて、生は死の部分的否定として推移的に登場せず、死も生も、どちらもいっさいの<食eclipsis>を欠いた、充溢する全体として対峙しあい、そのことで厳密に鏡像的に照応しあう。というのもそこでは全体から部分を隔離するような、選択的な半透膜、選択的な部分投射‐部分写像の上に、世界が設立されていないからであり、その結果意識は一挙に充溢し、ほとんど空白と等しくなる。
アラカワの作品の展開において重要な結節点である、一九六九年の『双子の習作A Study of Twins』に端的に見られるように、ツインという構造は彼の世界‐彼の真理構造の根幹にかかわること。そしてエピナールの『反転できる宿命の橋』(1973-1987)や例の『養老天命反転地』など、彼において同様に重要な<反転>は、鏡像的な構造と切り離せないこと。そしてそれ以上に、『意味のメカニズム』等に頻出する、『双子の習作』の発展形というべき、二組の縦に並んだ同数・同順序の言葉どうしを両グループ(両集合)間でそれぞれ線で結ぶ動は、結局集合の全要素を他集合の全要素に<非選択的に>全投射することで、結合関係を示す線はあまりに増えすぎ、飽和状態となって面状化し、線=関数としての存在を失っていくこと。――要するにここでは、最終的に二つの集合を結ぶ線、つまり関数=意味作用という表層‐皮膜は、<息せききった>ある種の強度へと沸騰し(とはいえこの強度は論理的操作から出来した「身体」なので、スピノザ的実体のように冷たく沸騰しているわけだが)、その結果、元来関数‐皮 膜という結合関係(=存在)の限定性(=部分投射=半透膜)に基づいて種別性(=自己・自我)を獲得しうるそれぞれの集合(=生命=存在者)は、完全に等しいもの(=死)に収束し、実質的に空集合Φ(=ラカンのいうファルス。とはいえ射精=消失の効果により弁証法的止揚〔=去勢または去勢の忌避〕を操作することのない)のみが立ち現れるerectioように思われる。――
以上の基本的感触を、頭の片隅に初期設定していただきたい。
 

■序論
若干の「美術史的考察」から開始しよう。
二〇世紀の美術‐文化の流れに照らしてみると、アラカワの作品は、ある種の先祖帰りである。
すなわち彼の作品は、今世紀中葉の展開を経験することなく、それを飛び越し、世紀初頭のシュールレアリスムに接ぎ木されている。中葉の展開とは、ルキショのように「内臓を直にぶちまけたような」、あるいはその内臓に過去と前意識が付加された「ガジェットの集積体」、例えばハプニング作家ベンのニースの店のような「正真正銘の懐かしい」空間。他方でその内臓=欲動の意識的言語的な昇華‐相同物としての反復運動や反復連続体、一例としてデュビュッフェの網目模様の白い「壁面‐皮膜、部屋‐胎内」、草間弥生の「増殖する」水玉と網目、あるいはアンディ・ウォホールのキャンベルの缶の「反復強迫」(正確には反復強迫の隠喩、反復強迫の再幻想化)などである。
この飛び越しは、単に美術史的なものでなく、アラカワという構造‐症候が抱えている固有の欠損と、その欠損の独自の補填過程――端的には、反復=皮膜形成 =部分投射の欠在を、「真理」の探究、美と幻想の否定という科学主義‐「分析哲学的求道」によって逆に肯定、強化しつつ、ツイン=反転構造という「一階の 記述内部への幻想‐皮膜の超記号論的=身体的書き込み」を通じて、「真理」から「倫理」へと移行=回帰し、世紀初の「分析的=宗教的」芸術に達する過程 ――に対応する。
逆にいえば、アラカワの「飛び越し」を見ることで、例えばシュールレアリスムという豊かな体験(とりわけデュシャン)の複数の位相を分解し、その後の過程で何が強化され、あるいは失われたかを、人は知る。ここでベンのようなハプニング作家が、等しく自らをデュシャンの後裔と見ていたこと。ウォホールがダリとたいそう親しかったこと、など、若干の末梢な事実を想起していただきたい。そして一九六八年という、重要な歴史‐文化的転換点は、その「身体的内実‐下 部構造」をすでに彼らに体現せしめていたのであり、その三〇年後、その彼らをまったく経由していない特異なデュシャンの弟子である(と言うことが正確には 可能なのか?)アラカワが、日本で社会的に着床しようとしているわけである。それはどういうことなのだろう!?……
さて、昨年、私は現代美術館で開催された『Dessins surrealistes展』を偶然訪れ、そこでイヴ・タンギーやアンドレ・ブルトンの手になる、幾何学図形や機械の設計図等の切り抜きの張り合わせ= 『精巧なる快楽的身体Cadavre exquis』を前に、久しぶりにアラカワのことを思いだした。
というのも、これらはアラカワの苦難に満ちた科学主義とは反対に、たいそう楽天的な科学主義を反映し、彼とは逆に詩的で幻想的な世界だが、しかし彼らもアラカワも、今世紀中葉の作品群が一様に刻印されている、欲動と反復の運動をいっさい免れ、いわゆる深層と身体的なものを欠いてること、奥行きのなさと見かけの抽象性をもつことで、類似の外見をもつからである。記号‐言語の位相でのみ作品が構成されるのは、実際まれなことである。
もちろんここで前者(特にブルトン)は、すでに獲得された前意識の表象(正確にはシニフィアン)の水平的‐換喩的な結合過程=自由連想の称揚によって、表象の奥行き(意識と無意識の差異)をあらかじめ作品の外部に置き去りにする(=担保する)ことで獲得された、深層の不在であり、他方でアラカワの奥行きの不在は、記憶‐無意識の不在、正確にいえばあれこれの記憶内容の不在ということでなく、記憶を基礎づける記載装置そのものの不在に基礎づけられている(ここでアラカワの固有性確立の記念碑ともいえる、『(母の)肖像Portrait No.1』(1961)をぜひ想起していただきたい。これは母の記憶ではなく、母の記憶の創出であり、さらに正確には、子供にとっての普遍的母という、記憶の創出=シニフィアンの原初的記載の援護‐推進装置を、彼固有の「メカニズム」によってゼロから作り、彫像‐造形した過程、つまり記憶の記載‐彫像運動そのものである。この作品は後半で再度見る)。
それゆえ、前者(ブルトンら)はまさに表層に位置し、アラカワは表層を欠在させ、しかしどちらも<物質‐身体>の次元、厚みを欠き、等しく言語的表象の水準に自閉する。
ここで一方のブルトンらは、夢の経済に無邪気に従い、そこで夢は、新たな表象を産出することのない、昼間の活動のいわば剰余価値であり、昼=現実のなかで身体を経由して物質から切り出されたシニフィアンを単に水平結合する。その切り出し‐身体は、シュールレアリスムの他の作家たちに様々な形で平行し、準備される。
すなわちブルトンが何気なく交配してみせる、<眼>、<矢印‐文字>、<機械>、といった、すでに意識‐言語野に登記され終えた表象群は、例えばマックス・エルンストの『沈黙の眼』のように、ただれた岩石‐遺跡、植物の森でもあり内臓の壁面でもある、過去‐無意識の風景から切り出され、あるいはミロのいくぶんか神話的‐象徴的な、しかし同時にまさに現在形で結像しつつある(特に『青の三部作』を想起されたい)、波頭の間の眼差しやエスカルゴといった欲動の部分対象として到来し、しかしそれ以上に最も手の込んだマルセル・デュシャンのチョコレート粉砕器、その分裂病的な回転運動によって女性の身体をも配分し彫像する、記号=物質的な回転‐探索装置として、しかしここでもまた、いずれにせよ現実世界の物理的=造形的実在物とその相関的身体運動(独身者的身 体、機械)として、<眼>も<機械>も産出される。
つまりブルトンが最終的に用いる、例えば「A→B」という断片的表象が、一見無機的‐抽象的なものであっても、それはもともと、物質‐身体を通じて世界から抽出されたものであり、デュシャンのような特異な人においてさえ、表象‐作品はその組成と運動の内実(例えばチョコレート粉砕器の形状と回転運動)自体において、本質的に現実世界‐物理的実在を自らの出自とし、あるいはそれを不可欠の補助装置として、自身に内包するのである。

これに対しアラカワの世界は、物質との連携をあらゆる面で永久に断たれている。
その世界は、絶対的に抽象的論理的なものである。
アラカワが「A→B」という表象を用いるとき、その表象は過去の記憶からも、現実の実在からも、すなわち実在物の知覚からも到来しない。
しかもその「A→B」を、彼は誰の助けも得ず――いかなる流派にも属さず、シュールレアリストたちのように美術史的同伴者の作業を前提とすることなく―― 「A→B」という記号‐表象、あるいは厳密な意味作用それ自体の内部のみで、その<価値>を定着せねばならない。
すなわち「→」とは、AがBに向かうこと、AがBへ変形すること、貫入すること、AからBへ時間がたつこと、変換されること、あるいはAがBを見つめること、AがBを欲望すること、そのどれでもなく、彼においては純粋に「→」という表象であり、論理的な意味作用なのである(とはいえそれが意味作用といえる だろうか)(3)。
一般に作家が「→」を描くとすれば、移動することや見つめることなど上述のさまざまなニュアンスを、重層的で揺らぎをもちつつ、その色彩、形状、質感、配置を手段に、その内実=<価値>を決定する。デュシャンの『大ガラス=彼女の独身者たちによって裸にされた新婦、さえ』の「設計図」に書き込まれた無機的な矢印群でさえ、その場所と向きによって、周囲の水車やチョコレート粉砕器や上空の銀河=身体といった「諸物体」との位置関係から、運動、欲望‐視線、言葉といった意味合い=<価値>の微妙な変化を配給され、規定される(デュシャンの場合、諸物は基本的に人造物で、しかもそれを作品に転倒的に変換‐導入するとき、その<瞬間的>変換操作を受け取る諸要素以外は物質から捨象され、物は記号の領野に近づけられるとしても、なおそうである)。
しかしアラカワの場合は、物に対するこの受動性、いいかえれば物が配分する意味の限定を甘受することは皆無であり、物はその「具体性‐限定性」を剥奪される。
すでに述べたように、アラカワの生がいっさいの<食eclipsis>を欠いているとするなら、それは意味作用における<食>の不在と同値であり、それは世界が、物質の感触という常に偏位と部分性を有するものから発現せず、偏位の排除と部分的諸物の完全な統合‐廃棄としての、完成した言語野内的意味作用から発現することによっている。
アラカワの最近の言い方を用いると、それは「知覚が降り立つ」ことであり(cf.『養老天命反転地』の趣旨説明等)、そこで世界の知覚、世界の存在は諸物から発現せず、完全に人工的に構築された(彼の頭の中の)幾何学的風景を通じて天から地に降りてくる。
彼の作品世界では、作品が用いる色彩、材質、材料といったものは、色彩や材質そのものの特性を、作品自体の有意な構成要素としては何一つ引き継がない。
彼が青と赤のネオン管を用いるとき(『意味のメカニズム:6.拡大と縮小』)、そこでネオン管のガラスの感触、赤い色と青い色の並置が与える固有の感情、 あるいは夜という前意識的なコノテーション、そういったすべては一つも作品に受け継がれず、あるいはバスケットボールのゴールリングが提示されるとき(『同:12.意味のフィーリング』)、リングの鉄とネットの繊維の感触の対比も、ボールの赤い色も、リングをボールがすり抜ける感触、その運動の知覚の固有性も、どれも作品構造の要素として駆動しない。
他の作家がネオン管を用いるとすれば(あるいはデュシャンがガラス板を用いるとすれば、ウォホールがキャンベル缶を用いるとすれば)、それらの材質や象徴性――無機質的でありつつ水に近く、水槽のように向こうが透けて作品に重なること。同形物が大量に反復存在し、それが大量広告で二重に反復され、さらに食べるものがつまっていて、毎日それを食べることetc――は作品の構成‐意味にとって、代置不能な必然性をもっている。しかしアラカワにおいては、ガラス や鉄の材質、赤や青の色彩は、あらかじめ先行する作品のシンタックス内部で逆に意味決定され、強引にその内部に押しつぶされる。
したがって彼の作品は、時には一見すると、「イラスト」風の軽妙さをもっており、彼の作品を前にする「最も無垢な」観客たちは、その水準で納得して家に帰ることも可能である。
例えば既述した、二列の単語群を線で結ぶ作品のヴァリアントとして、片方、あるいは両者の単語群を、ブルーおよび淡いブルーで塗りつぶした作品(『意味の メカニズム:14.意味の記憶の構築』)をみると、そこでの青の色づかいは実際「悪くない=しゃれた」ものであり、作品はどこかのブティックの包装紙にもなりそうである。
ここで青い色は、いわゆる精神病的話法の水準(要素間の連結が定常的規則に従わず、第三者には解読できないこと)では作家にとって意味をもつ可能性もある にせよ、解読過程にとっては色の固有性は意味がなく、そこに添えられた「ブルーからブルーへ、現在から過去へ、想起と記憶の関係」という文において、ブルーという語を他の色に置換すれば、同様に置換可能である。つまり色の使用は、室内装飾と同じ水準の閉じられた場所にあり、作品総体の意味作用には容易には連結しない。
しかもさらに確認せねばならないことは、ここで「ブルーからブルーへ……」あるいは「過去の、今は現在の想起する行為/現在の、今は過去の記憶」といった 作品に書き込まれた多量の文も、青い色とまた同様に(!)、作品総体の意味作用に対して決定的限定性を発動せず、要するに最終的な意味をもたないことであ る。したがって、「最も無垢なわけではない」観客たちが、習いたてのヴィトゲンシュタインや言語ゲーム論を引用しつつ、これらの字面の価値を称揚し評論してみせるとき、最初の例をしのぐコメディーが演じられる。
もしアラカワが、作品に添えたあれこれのテーゼや禅問答を最終的に提示したかったのなら、彼は哲学者になったはずだが、彼はそうせず絵画と彫刻を作り続けた、ということを、いつも忘れないようにしよう。
したがって、彼の作品が、その内実の決定においてある種形而上学的な一挙性を希求し、天から降りてくるかのシンタックスに諸物を(あるいは生を)従わせるとしても、そしてそのシンタックスが、その明瞭な非加算的性格によって確かに言語的だといえるとしても、それは作品に記されたあれこれの文‐意味、既存のあれこれの哲学的言明とは、別の位相に存在している。
つまり、彼の作品が世界の文法を発見すること――アラカワはそれを特に、真の世界認知、あるいは真の認知理論の提示としてなされるべきだと信じている(信じていた)――に強迫的につき動かされ、その強迫が実在する諸物とその差異を、作品の文法‐シンタックスに強引に押し込み溶融するとき、実際、彼はカント以来の分析判断と総合判断の偏執的‐<分析哲学的>二分法(あるいは諸物‐総合判断の<精神病的排除>)と、同じ道を歩むのだが、とはいえそこで諸物(総合判断)が還元されるべき分析判断の真の姿は、たとえば自同律A=Aのような形で、判然と(=言語的意識的に)見えているわけではない。
アラカワの作品が従っている、諸物に対し専制的でもあり、それゆえ徹底的に孤独な文法、世界の真理、アラカワによれば真の認知‐認識のメカニズムは、結局アラカワの頭脳の文法であり、その特殊=普遍的文法に諸物が押し込まれていく過程であり、だとすれば、その文法、アラカワの自同律(という世界の自同律)は、まさにアラカワが世界に接する過程総体を再現している作品の形象全体に、騙し絵のように、あるいはホログラムの二次元フィルムのように巧妙に配分される。
それは作品のあれこれの部分、あれこれの言明や明示的論理でなく、まさに芸術作品が常に従う、形象総体を通じた伝達の様態においてのみ読解される(彼の作品が美‐隠喩の古典的意味作用に従わなくてもそうであり、正確には、従わないがゆえになおさらである)。
そしてその内容を、あらかじめ要約的に語るなら、それは特異でもあり同時に普遍的な精神病的(つまり非ヘーゲル的‐非神経症的)自同律、非ヘーゲル的であるゆえに時間と知の累積性を完全に欠いているが、その欠いたものを、空間の形態で導入し、とりわけ容積、ないしマス(質量・塊団・基体)の概念=感触に転調させるものである。
そこで時間‐累積性、すなわち諸物の選択透過性=皮膜=隠喩の欠如は、自己の種別性‐存在を摩滅させ、世界に対する圧倒的従属と精神病的被操作感を帰結させるが、この息苦しい時間と自己の消滅帯は、アラカワにおいて、境界を失って世界へと逆向きに意識‐身体が膨張し、充溢した空白が登場する電磁場‐マスという、文字どおり反転(意識の空間的プロジェクション)に向かう身体‐意識(言語)的自同律として登場する。
しかもこの充溢した重い空白は、次の瞬間書き割りの風景のような軽さとなり、最初の内/外または自/他の反転に、重力/反重力または底/底なしという再反転が重ねられ、アラカワ固有の上下の反転(=運命の反転)世界が構成される。
これは諸物から切り離された分析判断が、その切断の効果としての限界的抽象性=線形性を身につけたまま、再び諸物に回帰し、実在世界を欲望し貪欲に飲み込み、しかし次の瞬間最初の無重力的な抽象性に回帰していくかの、過程‐身体状態である。
それを作品の運動そのものに、具体的に見ていくとしよう。
しかしその前に、彼の営為が分析哲学的な偏執に、前述のごとく突き動かされ、その還元主義の内実の種別性において、それと同形の疾患‐症候であることは確認する必要がある。実際、「狂っている」という(一般社会では失礼な?)表現を用いるなら、ラッセルの持ちこんだ諸帰結の異常さはアラカワに匹敵・凌駕するものであり、にもかかわらず(=であるゆえに)、この精神病学派でラッセル(とカルナップ)がもつ重要性は疑えない(ここで以下若干の哲学的議論を経由する。それが後の記述、特にアラカワの作品がもつ破格の身体的出力を、まさにアラカワが感じているのと同じ精神=身体的位相で感知することを可能にする、 新しい非隠喩的な作品読解態度の記述のための、前提知識となることを了解され、少々我慢していただきたい)。

アラカワと分析哲学を通底する精神病的特異性を端的にまとめると:①諸物‐現実認知と、記述‐言語が完全に分離し、世界が<記述‐言語>の位相のみで了解 ‐処理される。②しかしそのような<記述>は世界(認知)の現実的な厚み‐非線形性とは相いれないものなので、<記述>の抽象性を補填する症候が、記述とは別の位相に措定される。具体的には、述語(アラカワの場合とりわけ形容詞‐遠近法)は諸物‐現実認知とは結びつかない抽象的推論と考えられ、それに対立するものとして、十全たる全体性としての主語が特権化され、あるいは述語(形容詞や範疇語)を構成する分節された対立(例えば遠い/近い)の壊乱が目指される。例えばラッセルにおける論理的固有名「これ、あれ」、クリプキあるいはアラカワにおける固有名(アラカワの場合自分や他者の名)、さらにアラカワに おける対立物の混合(遠い=近い、一秒=一世紀)などである。③しかしそれら症候としての全体性は、あくまで言語内部での述語の対極物、述語の混合‐並立物でしかなく、基本的に現実世界‐現実認知とは切断されているので、<記述=述語>がもつ平板さと抽象性を自身に引き継ぎ、「抽象的な現実的全体性」、言葉と現実の短絡という奇妙な性格をもつ。特にアラカワの場合、それは「論理的な知覚」という表象や、造形された空間の障子張りのような軽さとして現れる。 この形象‐空間の抽象性は、彼の「懐かしい都市」という新たに創出された「ここ」をも同様に規定する。④しかしこの抽象性は、表象‐形象レベルのものであり、その抽象的全体性‐無差異性の背後には、身体と知覚の現実的水準での充溢した全体性‐無限の差異性が存在し、それは作品‐形象の「裏地」(奇妙に重い背景の白さ、空間内部の充溢)、あるいは作品とともに要請される身体支出として存在する。これがアラカワと分析哲学を最終的に分かつ点であり、この現実的‐身体的な全体性は、例えば「新生児の知覚」のような未分化な身体強度、超差異的‐無限差異的な知覚‐身体の獲得という、作品鑑賞の実践‐遂行水準に要請される。
まず、分析哲学は、真理の基礎づけを、世界の事実的‐偶然的様態(例えば「宵の明星は明けの明星と同じであること」→「宵の明星=明けの明星」)に基づく総合判断から分離し、論理そのものの構造に内在する分析判断(例えば「宵の明星=宵の明星」といった自同律)に基礎づけること、つまり論理‐記述を諸物から分離することの上に成り立ってきた。しかし同時に、記述の正しさは、現実=諸物との関係で決定されるので、諸物と記述との結合点、例えば言葉(記述)の 意味作用(諸物を指示すること)には、記述を諸物から分離することの矛盾‐困難が集中的に現れる。例えばラッセルにおいて、言葉(名前)の意味とは現実の 物自体だが、そのような意味=指示機能を本当にもっている言葉は論理的固有名「これ、あれ」以外になく、他の言葉はすべて現実との直接的照応を断たれた 「頭の中だけ」の<記述>である。これは記述‐推論が諸物=認知と完全に切断された抽象的な線形演算として措定され、その結果、逆に、物はいかなる記述‐ 演算の「汚染」も経ず、絶対的確かさのもとで存在せねばならない、という信仰が生じることに起因する。この諸物と記述の分離は、例えばクリプキがラッセルに反対して、一般の固有名すべてに論理的固有名と同じ権利を与えようとするときにも、似たように作動し、そこでも「記述を免れたもの」=固有名が、「記述 の外部=物との特権的接合点」として措定され、ラッセル批判の外見のもとで、ラッセルと同様の<症候>が反復強迫のように回帰する。
結局分析哲学では、諸物と分離された記述‐述語は、その厳密性=抽象性ゆえに実は現実性を疑われ、その対極に、あらゆる抽象性を免れた固有名や「これ」が想定される。そしてアラカワにおいても、述語‐遠近法は同様にその現実性‐身体性を疑われ、それらの制度=抽象性を免れたものが求められる。
例えばアラカワが「名前」に対し強いこだわりをもっていることを、ここで想起していただきたい。
『養老天命反転地』では、一方で知覚はその滑らかさ、物に寄り添いそこに発し回帰する非線形の皮膜であること、要するに現実の諸物に基づく自然なものであることを否定され、知覚に対し「絶えず先行した光景」(cf.『同趣旨説明』等)として抽象的‐専制的に構成され、知覚と身体制御過程は壊乱される。そしてその混乱の極みで、鑑賞者‐実践者は、自らの名や誰かの名を叫ぶことを作者から求められる。
つまり既存の知覚は諸物‐身体から切り離された単なる制度‐記述とみなされ(上述①)、それは人工的風景=論理を通じて新たに構築しなおされ、(同②) ――例えば「ここでは植物が自然の姿のままであるのではなく、我々人間と同様に人工的に新しい位置を明確にされ、新しい場を与えられる」(cf.同上) ――、しかしその光景‐形象そのものは、ある種の荒っぽさと希薄さという奇妙な人工的抽象性を帯びており(同③)、だが同時に、その空間は形象には書き込まれていない、身体支出‐認知的緊張としても存立し(同④)、その身体的全体性‐充溢の相関物として、自己、あるいは他者の名という、「固有名の発話」が 要請される。
アラカワにおいて、固有名は身体的‐現実的全体性と同じ位相にありつつ、分析哲学の論理的固有名と、まったく同じ構造的位置を占める。しかもアラカワを見ることで、この固有名は、物との特権的接合点としてでなく、他者との特権的関係(精神分析でいう対象関係)によって要請され、そのことで記述‐述語と対立することが明らかとなる。つまり名とは、名指すこと、呼ばれること、叫ぶことという共身体的‐対象関係的位相において特権性をもつ。そしてそこからラッセ ルをふり返ると、彼もまた「これ、あれ」を特権化したとき、単に物との関係でなく、人が「これ、あれ」というとき、二人の人間が直接に対面して厳密な現在という「同じ時空間」に臨席し、そこでは記憶‐想起が問題とならず、思考の個人性、言葉の意味の個人性が棄却されるゆえに、それを特権化したのだ、ということが了解される。
つまり分析哲学的‐精神病的思考では、疑われた記述‐述語の対極物としての、主語‐固有名‐諸物は、同時に他者の直接性を受け取る場所として夢想される。 これは、記述‐述語、あるいはアラカワのいう制度としての述語‐遠近法は、他者(母)との関係の中で構成されていく認知(諸物の知覚)に、本来は基づくにもかかわらず、これらの精神病的思考では何らかの理由から記述は現実性(諸物との関係)を喪失して平板な抽象性に閉じてしまい、したがって諸物を失うことで、他者‐母との関係も消失し、その消失したものを、再度別の形(現実的身体や固有名)で導入せねばならないことによっている。
まず、ラッセル等で、諸物と記述の解離がどう生じるかを見てみよう。
例えば「ソクラテスは人間である」という命題が可能なとき、本来、人はソクラテスを知らねばならないし、人間とは何であるかを「現実的=認知的に」知らねばならない。そして人間を知るには、人は人間でないものを知らねばならない。つまりこの命題は「現実的否定」の効果(人間でないもの)によって成り立ち、ソクラテスは潜在的に人間でないものと対立させられている。ではソクラテスは何と対立しているのか? 机と対立しているのか? もちろんそうではないし、 しかもその内実は知りえない。それは逆伝播法マシンやボルツマン・マシンに、例えば凸/凹多面体の差異(要するに<諸物><知覚>)を学習させたとき、彼らが非線形変換を通じてどういう差異化‐対立の解法を発見したのかは、事後的に構造(=脳のシナプス結合)を開いてみなくてはわからないのと同様である。
しかし人が真偽について分析哲学的議論を始めると、そこでは「ソクラテスは人間である/ソクラテスは人間ではない→1/0(真/偽)」という言語内部で純粋に閉じた写像関係が操作され、「人間」を差異化‐析出する否定の作用は累積的な非線形変換ではなく、「(ソクラテスは人間)である/でない」という単に語結合上の対立として線形分離されてしまう。
もっとも通常の言明でも、「明日いきますか?」という問いに対し「いえ、いきません」と答えるとき、人は「いく」ということの内実を検索しているわけでなく、回答は概ね言語野内の結合操作、「いく/いかない」という共時対立で閉じられている。これは思考‐語結合過程を支える脳の短期記憶の容量が、人間の場合ひどく貧しいことに起因している(文と画像情報の圧倒的量の違い、ただの語鎖列でなく画像を保持することの困難を想起されたい)。例えば「多くの矢は的を射なかった」という文を受動態変換し、「的は多くの矢に射られなかった」とすると、その真理状態、構成されるイメージは変化してしまうが(これが初期のチョムスキーの悩みの種だった)、それは「的は‐「[多くの矢に射られる]」で、否定辞」が純粋に言語野内でのオートマティックな短絡結合を引き起こし、 「的は‐「[多くの]矢に射られる」(=「的は‐少しの矢に射られる」)へと変質するからで、これは「多くの矢に射られる」という一まとまりのイメージを 維持する困難を避けるべく、短期記憶量の低減をめざす脳の一般的エコノミーが働くことによる。
つまり諸物=知覚と記述=言葉の分離は一般の思考でも発生し、その分離を、分析哲学的思考は固定化する。人は「ソクラテスは人間である」というとき、それが「ソクラテスは人間でないor非人間・動物である」ということの単なる否定でないことを知っているが、分析哲学的思考はそのことを永久に忘却し、思考は語の結合の可否にのみ切り詰められる。これは最終的に精神病的思考に帰結する。例えば「宵の明星は明けの明星である」という思考が「宵の明星=明けの明 星」という形に分析哲学的に「表記しなおされる」とき、思考は実質的に無時間的で諸物との関係を失った分析判断(例えば宵の明星=宵の明星)と同等のもの となる。つまり「宵の明星は明けの明星である」を「……=……」として処理することは、「ソクラテスは人間である」という<思考過程>を「ソクラテス=人 間」として表記し圧縮することと同じであり、そのとき「(明けの明星=宵の明星)=(宵の明星=明けの明星)」と同様「(ソクラテス=人間)=(人間=ソ クラテス)」が帰結する。そしてフォン・ドマルスが示したように、実際一群の精神病者は、「ソクラテスは人間である」と「人間はソクラテスである」を区別できない。
これは端的には、思考における待機と時間の喪失を示している。「ソクラテスは人間である」というとき、人間の本来的思考では<ソクラテス><は=be, essere><人間(である)>の三項は、いわば現在・未来・過去の異なる三相に帰属する。認知内容との全連結を潜在的に保持しつつも、同時に厚みのない全体性=ただの言葉である主語<ソクラテス>は、<be>という幻想‐想像的な待機の過程(これは原初的には他者=母に向かい、待つ時間である)を経ることで、述語に記載された過去‐記憶‐認知から遡行的に発見され、<述語にかかわる限りのものとして>内実を限定‐贈与される。通常の思考では「ソクラテ スは人間である」はただの語鎖列として扱われ、このような過程を経ないとしても、そのときはこの文全体が主語=関係節として、次の入力=述語に向けて待機 し遡及決定される。
これに対し、精神病的思考、または「ソクラテス=人間」ではこの遡行はなく、述語の瞬間に主語は放棄され忘れられる。ゆえに「人間はソクラテスである」で もかまわない。あるいは「花は桜」という日本的な擬似精神病的思考もこれに従う。この例がもつ書き割り的な非物質性と軽さは、同様の質感をもつアラカワの 世界(4)を後ほど説明するだろう。この文の組成は、「死」という避けがたいもの‐抑圧物に対する防衛に規定され、そこで言葉は「死」という内実を避けるべく意味内容‐現実から切断され、ただのシニフィアン‐花弁として宙に舞う(故に、ここで「花は桜、人は武士→人は花である(武士は桜である)」という精神病的思考、つまり「人間は死ぬ、草は死ぬ→人間は草である」と同形の三段論法が駆動するとしても、その帰結説「人=花」の同値性は、隠された項「死」の 隠喩的‐神経症的(=非精神病的)規定に基づいている。しかし述語の瞬間に主語を忘れる過程自体は、純粋に形式的‐精神病的であり、しかも<は=be>が 述語による遡及決定のための待機装置として駆動せず、そこに幻想的‐対他者的な情動が過剰に負荷され、直接に他者に向かう<想像的な>待機のみが働く所に、固有の日本型精神病的美学がある。この問題も、アラカワとの関係で後ほど考察する)。
この、述語による遡及決定の不在は、述語が諸物‐認知から分離されることと、お互いに規定しあう。まず「人間である」ということが、人間についての現実的認知と分析哲学的に分離されることで、それはただの言葉となり、ソクラテスのイメージを具体的に分節‐遡及決定できなくなる。しかし他方、精神病では、より根幹に、遡及決定の基盤となる入力情報の保持‐積算の物理的困難があり、その困難は、同時に知覚‐範疇分け‐遠近法といった認識構造の学習をも不能にし、述語の基盤となる認知そのものの解離をもたらす。そして分析哲学でも精神病でも、諸物と思考の分離の結果、逆に諸物‐身体の厚みをもった現実的感触に 照応する全体性が、記述としての述語を飛び越して、別の場に症候的に要請される。しかしそれは最初から諸物とのつながりをもたないので、奇妙な抽象的全体 性しかもちえない。
例えば分析哲学的世界(アリスの不思議の国)では、(論理的)固有名としてのソクラテスには、ソクラテスという人の現実的全体性と、ただの言葉=音として の全体性が曖昧につきまとい、それは「猫のないにやにや笑い」のような不可解さ、あるいは「現在のフランス王」のような非現実性を刻印される(「現在のフランス王は禿げている」という言明の真偽値をどう決定するか――なぜならフランスに王は現存しないので――は分析哲学での積年の問題だった。そしてそれは 未だ完全に解けていない!)。これは名としてのソクラテスが、命名過程という対象関係の非線形的時間でなく、すでに確立した共時的‐線形的語彙目録にのみ 出自をもち、その上で述語の分節=限定性の対極に位置づけられることによる。つまり言葉と諸物は後者が前者に包摂される形で短絡する。そしてこの短絡は精神病的症状でもあり、それゆえある種の精神病者は「うまく物事を理解するには天才という言葉を使うといい」と言ったりする。
精神病においては、身体から疎隔し、ただの記述‐制度でしかなくなった形容詞や範疇語に対立する全体性として、対立概念の並立や範疇の混合が偏愛される。「全能なるものは無力であり、静寂は喧騒である」といった「パラディグムのサンタグム化」や、「重軽い」等の新造語、「半人間・超人間」といった脱範疇概 念などがそれであり、それらも「現在のフランス王」と同様の、抽象性‐純粋言語性を帯びている。精神病者シュレーバーが自作した「基本語辞典」は、「神聖な語」と「暗記され反復されるもの」に二分され、前者は「毒は食物を意味し」「報酬を与えるとは処罰することである」といった語の使用法を含むが、これは 断片化し自らのものでなくなった思考=記述(「暗記され反復されるもの」)の対極で、再度身体的全体性を記述内部に回復しようとする運動である。
ここで人は、アラカワを同様に刻印している対立物の並置化傾向、一秒=一世紀(『意味のメカニズム』)、上=下(『エピナールの橋』等)、内=外(『奈義 の龍安寺』等)などの一貫した偏執を想起しうる。彼によれば「イメージというのは全部反語的なものでできている。外があってないもの、遠くて近いもの、高くて低いもの、底なしに底のあるもの、色があってないもの、全部こういった反転可能なもので成り立っている。……共同性の材料を、個人的な場にいれていくのだから反語的になるに決まっている……」(『現代思想』94/11)。アラカワの場合、上下等の反転運動総体は複雑な組成をもつが、そこに含まれる、対立物の結合への偏執に限るなら、それは述語‐形容詞の疎隔化‐外身体化とそこへの反動形成という、精神病的機制に従っている。
だが、その一方で、アラカワにおける対立物の並置は、純粋に抽象的‐分析的‐空間的で、シュレーバーのそれがきわめて性的‐妄想的なのと、大いに様相を異にする。これはアラカワを分析哲学と精神病の中間に位置づけることの根拠となるが、そこには以下の事情がある。
まず対立物の精神病的並置において、その並置自体は言語的作業だが、何を並置するか(内=外、善=悪等)は、言語以前の原初的な世界認知に帰属する。そして原初的な世界認知、つまり認知と身体制御のアルゴリズムは、言語以前の場で獲得されるだけでなく、その端緒から、性的‐神経症的過程を刻印されている。例えば子供がよく描く内部透視図‐内外短絡画法の精神分析的解析が教えるように、それは母の体内探索、隠されたものへの恐怖、性的欲望、といった情動と不断につながり、これらの性的情動が、子供の世界認知を最初から強く規定する。そして対立物の精神病的並置にも、この原初的=性的な世界認知が影を落とす。 それゆえシュレーバーの「処罰=報酬、毒=食物」といった例は、明瞭に肛門・口唇欲動とつながりをもち、そこには母‐父との対象関係を通じて身体表面に記載された、神経症的、正確には強迫神経症的な力動が表現される。つまりシュレーバーの手記は、父への両価的愛憎感情のような、主体の無意識の普遍的構成過程と隠喩的なつながりをもち、それは文字どおり文学的で誰にもわかり、同時に退屈な代物である。一般に精神病的な並置化は、両価性をはらんだ対象関係を反映するので、必ず<善/悪>の要素をもつ。
これに対し、アラカワの対立は、基本的に善悪の要素をもたず、純粋に言語的かつ空間的で、その抽象性、性的要素の不在はきわだっている(これは最初に述べた、彼とシュールレアリズムを端的に分かつ点である)。つまり彼においては、記述‐述語への懐疑と、その懐疑を通じて、制度としての記述が取りこぼす全体性を再度記述‐形象内部に回帰させる、純粋に知的‐科学主義的な表象操作が前面にあり、表象(並置された対立物)そのものは身体的‐性的過程から切り離される。
とはいえアラカワの世界は、精神病と無縁なわけではまったくない。彼において(対立物の並置をはらむ)作品‐形象そのものは善悪と性的‐身体的要素を排除するが、形象がその存立のために鑑賞者に要求するのは、純粋に身体的な支出であり、しかもその新たに構築された身体(あるいは知覚)を通じて目指されるのは、新しい共同性‐間主体性という、倫理的‐道徳的な空間だからである。つまり表面上の記述‐形象は、性(対象)関係と善悪を一貫して排除しつつ、形象に賭けられているもの、その裏地は、対象関係や身体と密接につながった、存在論的全体性である。そしてラッセルにおいても、症候としての全体性「これ、あれ」の背後には、既述のごとく身体‐対象関係が特権的に関与する。
つまり分析哲学でもアラカワでも、記述はその力能と真の公共性を疑われるが、その前提には、記述を共有し、かつ自らに教授した、他者・対象関係への不信が ある。そしてアラカワの場合、記述‐述語への不信は、特に遠近法という公共的な知覚‐述語(遠い/近い)への不信であり、その背後には、おそらくアラカワ の現実的知覚がもつ特異な強度‐超差異性が、通常の知覚(およびその表象としての遠近法‐形容詞‐共時的差異)との間にもつ、隔たりと疎隔感が横たわる。 実際、アラカワは形容詞への違和感をよく語る。そしてその結果(あるいはその原因として)、記述としての遠近法と、その基盤としての現実的知覚を贈与‐共 有する、他者‐制度への不信が存在し、それがまったく新しい対他関係、「救済のための都市」を要請する(とはいえこの道徳性への要求は、しばしば分析哲学の裏地でもある)。それゆえアラカワにおいては、精神病における(述語の基盤たる)知覚‐範疇分けの解離と、構造的に相同な、知覚‐世界認識の特異性が存 在するが(5)、その特異性は、シュレーバーのように自己の対象関係‐性関係のみからは由来しないので、形象‐作品そのものは新たな知覚‐記述の創出に捧 げられ、身体(あるいは自他の身体関係)は、既存の性関係から切断されて、その新しい知覚‐形象‐公共性の創出の手段としてのみ登場する。
アラカワの世界は、一貫して遠近法の否定に捧げられ、彼自身若いときより「遠近法はただの制度である」とくり返し語っている。しかし述語‐遠近法は、本来 他者=母からの現実的知覚の学習とその内化に基盤をもち、それは対象関係と不断に関与する。そして一般に絵画とは、疎隔化し制度化した知覚‐遠近法の主体 への再統合を通じて、対象関係‐性関係(つまり症候的全体性)を幻想的に配給する装置である。つまりアラカワの芸術がもつ宗教性‐道徳性、性関係の表面的 不在と、形象‐作品の外側で現実的(=非想像的・非幻想的)身体支出としてのみ対象・対他関係が駆動する特異性は、彼における遠近法への極端な敵意と連動している。したがって述語‐遠近法への懐疑と、作品‐形象外部の身体支出(=実践としての鑑賞)の重要性、そして救済と都市建設という、アラカワの世界の 主要素の密接な連関を分節するには、知覚‐遠近法の普遍的構造をあらかじめ理解する必要がある。
まず、遠近法とは、元来(アラカワがいうのとは反対に)絵画上の一制度でなく、世界認知を支える現実的なものである。マー以来の認知‐制御工学が明かした ように、主体の世界認知‐身体制御は、逐次遂行的‐フィードバック的な演算ではなく(つまり<自己の><現在的>視点を基点とするものでなく)、空間についてのいわば俯瞰的な見取り図(=遠近法の基体)を構築した上で、あらかじめトレースした(関節の角変化の微分値の)最小軌跡上を身体移動させるものであ る。つまりこの見取り図は、客観的空間と自己の視線の場所の限定性を統合し、世界を身体的必要にあわせ潜在的に分節し、述語(遠近法)の実体としての推移 的‐段階的な遠/近区画を準備する。例えばLSDの体験で自分がいる部屋が現在進行形で上から見え、あるいは臨死体験で、よく自分を見おろしている図が語 られるが、これらはただの「想像」ではなく、空間配置を第三者的に把握する認知的学習の脳内形成物が、まさに自分自身の視覚‐体験として作用することによる。
そしてこれらは母の存在と切り離せない。議論をきわめて単純化するなら、この母は、例えば母猫の尻尾のようなものである。子猫が母猫の尻尾に飛びつき、そ れで遊ぶとき、母猫は子猫の運動能力の進化にあわせて尻尾を移動し、尻尾を通じて餌捕獲の運動アルゴリズム(=猫の遠近法)を贈与している。この遠近法は、子猫と鼠を、いわば第三者の視点からなる単一のマップに空間記載し、そのマップから出発することで、両者の位置関係の変化とその短縮化(餌捕獲)に向かうべき子猫の軌跡は最短演算で出力される。
母猫の尻尾は外界と主体(子猫の運動能力)の中間にあり、ウイニコットのいう移行対象、ラカンのいう対象aに該当する。ここで母猫が子猫の動きを無視すれば(愛を与えなければ)遠近法は内化されず、第三者の視点は彼にとって外的な異物となり、同時に遠/近の差異分節は人工的異物感をもち続ける。逆に子猫が先天的に遠近法を内化する能力をもたないなら(精神病は概ねこちらに該当する)、母の存在は最初から現実的に体験されず、同様に第三者の視点は外在化する。アラカワが彼の認知理論のために多量の心理学や認知科学を動員しつつ、対象関係にかかわる議論はいっさい採用しないのは、単にアメリカでの理論流通の貧しさのせいなのか、それともアメリカ‐アラカワという症候的バイアスのせいなのか?
芸術において遠近法が問題となるとき、そこではこの脳内的‐対象関係的遠近法を、芸術的表象内部に再確立することが問われている。つまり、人は自らの遠近法‐対象関係によって、<自己と他者が別の場所で世界を見ていること>を常に忘れるが、絵画の遠近法それ自体は一つの制度であり、紙の上の模様でしかなく、自らと他者の混同を与える幸福な表象は、不断に惰性化し主体に対し疎隔化する。そのとき表象は紙切れに回帰し、鑑賞者は歴史(鑑賞能力)の進化とともに精神病化(遠近法‐述語の疎隔化)を強いられる。したがって惰性化した遠近法の内部に、再度母猫の尻尾‐移行対象を書き込むことが求められる。例えばラカンのセミネールの表紙に引用されているホルバインの絵『大使たち』(1553)の下方にある奇妙な物質は、この母猫の尻尾である(ただしこの場合は惰性化したものでなく、新しい遠近法を主体に内化することが問題となっている)。
この物質は斜めからみると髑髏であり、正面から見た感触はペニスに近く、髑髏を出現させる視線の移動‐画面の伸縮化と相まって、直接的‐性的な表皮伸縮感覚を運搬する。つまり母猫の尻尾は累積的な時間を操作する間身体的器官だが、このペニス(つまり享楽‐射精)はより瞬間的で強力な間身体器官であり、それは外在化(制度化=純粋言語化)した厚みのない世界認識(=紙切れに帰した遠近法)の無時間性に照応しつつ、それを再度主体に内化する性的‐間主体的な結合力を発揮する。つまり母猫の尻尾は外界と自己の身体の中間にあり、そこで自己は尻尾の動きに対し半ば受動化することで、他者の制度を内化するが、このペニスが運搬する性的享楽では、主体はさらに原始的で受動的な、ほとんど死に近い場所におかれ、そこで自他の区別は消失し、主体は他者の知覚‐世界に対する 疎隔感と疑義をもつ可能性を、完全に剥奪される。
つまり母猫の尻尾が、確立しだした主体に向けて、一つのローカルなアルゴリズム‐記憶を贈与する場所なのに対し、この絶対的受動性は、主体それ自体、記憶を構成する装置それ自体の贈与の場所である。これは例えば、新生児が発声の同一性そのものを獲得する空間であり、そこで新生児は同じ音を反復することもできず、多様な発生をくり返し、しかしその音を母親の方が模倣‐反復してやると、その反復は次の発声制御のためのバッファとなって声帯制御にバイアスをかけ、新生児は同じ音の反復が可能になる。つまり新生児の記憶は頭の外(=母の反復行為)に存在し、ここで主体は耳‐口という間身体的皮膜(性感帯)としてのみ存在し、身体=頭の内/外は裏返しになっている。そして知覚と世界が疎隔化し、ただの紙切れ(=純粋言語的な線形空間)でしかない表象=遠近法へと帰しているとき(そこで<近い>ということは<遠い>の反対でしかなく、結局どちらも似たようなものとなる)、そこで無力化したのは、他者の認識制度とともに自己の認識構造でもあるので、その無力性‐新生児性につり合うような、完全に原初的な受動性=享楽が、再度知覚と他者の受容‐構築のために症候的に要請される。
この自他の絶対的同一性、運動‐知覚への絶対的受動性が、ラッセルのいう「これ、あれ」であり、アラカワのいう「自分の名前」あるいは(論理的)固有名である。名前とは、表象ではなく、(外側にある自分の頭の中から)語りかけられ、叫ばれ=叫ぶ行為の中で同一性が獲得される、身体的強制の作用である。
したがって、これらの超主語、固有名は、音‐発声に切り詰められた表象であり、結局それは表象‐記述でなく、身体支出の水準に存在する。つまり視覚‐遠近 法‐述語という分節された知覚と表象は、分析哲学的‐精神病的世界では、徹底的に疑われ排除されるので、身体と知覚を贈与する他者との関係は、完全に分節を欠いた視覚以前の身体接触、アラカワのスローガンでもある「新生児の知覚」という、未だ何も見ることのない未分化な充溢的身体としてのみ、「表象の外側 で」導入される。それゆえホルバインの絵のペニスが、その伸縮作用によって最終的に遠近法を主体に内化するのに対し、アラカワの新生児的身体は、正確には 永久に射精に至らない充溢したペニスであり、それはあらゆる分節を欠いた全体的器官として、記述と遠近法の外側にとどまり続ける。
つまり厳密にいえば、ホルバインのペニスは抑圧された死(髑髏)と快楽(ペニス)のまさに具体的表象物であることで、瞬間的でありつつも結局は限定された快楽=知覚を配給する、母猫の尻尾の類同物となり、その結果それは半ば能動的な鑑賞者のペニスとなって、意識‐記述の中で死(=絶対的受動性)を操作=表象しうる、隠喩的器官となる。それは他者から受け取る快楽‐知覚を操作できるので、他者の制度‐遠近法を再度主体に内化する。それに対し、アラカワ(または分析哲学)では性的なものと快楽はいっさい表象されないので(例えばカントやヘーゲルと分析哲学を対比されたい)、身体と知覚は部分性と分節を欠いた絶 対的充溢と受動性の中のみにあり、その結果、身体は母親に所有されたペニスとしての新生児的身体という、自己所有されない力となる。つまり、その世界に 能な症候的全体性は、能動=受動という完全に自他未分的=共身体的な「ここ」としてのみ、意識と形象の外側に、救済のごとく到来する。
それゆえアラカワ(または分析哲学)で、記述の外側に回帰した他者と諸物の場所である、「これ」あるいは「ここ」という共身体は、その完全な充溢ゆえに、 身体というより半ば抽象概念のような空白となり、しかしその空白的範疇‐意識(例えば対立物の並置という表象‐形象)は、表象され幻想化されることのな い、身体と享楽の現実的運動を、自らの背後に抱えている。そこでは「ソクラテスは人間である」という思考‐意識を可能にする、<はbe>を通じた待機と遡行運動は駆動せず、というのもそこでコプラbeは鬱血した身体となって無時間的な<=>にとどまり、述語の到来という差異の減衰=意識の創出を許容しないからである。つまりコプラ<=>は、遡及決定を待機する時間‐忍耐を学習させる、ゆらぎをもった母子的‐性的過程でなく、いきなり脳髄をつかんで外側に引きずり出すような、絶対的従属としての性的=抽象的結合過程、いわば鬱血し猛り立ち自らを失ったファルス=忘却としての、結合子<=>なのである。
かくして、アラカワの世界において最終的に賭けられた、「ここ」という新生児の知覚=共身体空間は、その世界がもつ記述と遠近法への激しすぎる(分析哲学 的)懐疑の結果、作品‐形象そのものの中に、それとして書き込まれることはけっしてない。つまり、表象・形象内部における、遠近法の否定としての症候‐作品(さまざまな線と言葉が奏でる接合と混乱、対立物を並置する奇妙な命題)が、完全な障子仕立ての紙細工として、最後まで分析判断の水準で抽象的に走行するのと並行に、この幼児の身体(=主語ないしコプラ)、つまり一般の作品が幻想的に隠喩する快楽の該当物は、表象自体には明示的には書き込まれず、表象との連関、つまり帰属先の分化‐所有権を拒否された、制作者=鑑賞者の身体支出としてのみ到来する。この身体支出は、表象の水準での分節から切り離された、「ここ」という主語‐意識であり、それは分節されることなく、無際限の差異をはらんだ白色の意識であり、とはいえそれは、新生児のように現実に叫び、世界 ‐他者へと叫びかける、具体的力動をもった<身体支出>としての原初的意識である。
この身体支出の構造は、いわば毛沢東の実践論に該当する。例えば毛沢東が「(たとえ核兵器を何個所有しようが)アメリカ帝国主義は張り子の虎である」と語ったとき、これが<隠喩>ではなく字義通りの真理として語られ、そこには異常な熱情と奇妙な希薄さの同居構造があったこと感知できれば、アラカワの世界 も幾分か了解可能だろう。つまり、死(核兵器)を恐れなければ「アメリカ帝国主義は張り子の虎である」。それは隠喩ではなく真理である。そして死があまりに(=計測不能なほど)恐ろしければ、つまり主語‐身体が述語‐遠近法に書き込みをもたないほどの強度をもつなら、同じくそれは真理である。そこでは表象 と身体、認識と死は、双子のように張り付いてテレパシーで対話しつつ、世界の逆側にとどまり続ける。「アメリカ帝国主義‐死」は「張り子の虎‐表象」を表 に残し、それとしては消失して、世界への書き込みをもたなくなる。
結局アラカワの世界において、表象は享楽と身体を隠喩せず、作品はその厳密に分析的=非美的な組成によって、表象の外側の身体の場所を論理的に指し示す。 したがってそこに賭けられた享楽=全体性を体験するには、鑑賞者は古典的芸術ではなく理論書を読むような態度によって、作品の指示に従い、身体そのものの場に「下放」されていかねばならない。それは美の否定の上に存立する、完全に新しい「分析的=実践的」な芸術である。
以上で前提議論を終了し、作品の具体的分析に移行する。
 

■作品『ボトムレス』と上/下反転運動の具体的分析 

一九六三年にアラカワが制作した、中空に漂う鉄のケージ『ボトムレス(底なし)1~3』は、今世紀に制作された最も重要な芸術作品の一つである。
この三部作はアラカワの世界の分節原理を凝縮‐提示し、彼の世界の基本的メカニズムをすべて胚胎することにおいて、デュシャンの『大ガラス』特にその中核 的分節機械「チョコレート粉砕器」に該当する。
事実、この作品がもつ一見したぞんざいさと裏腹の、緻密さ、構造的必然性、無駄のない作り、そして(いうまでもなく)圧倒的なオリジナリティは、デュシャ ンの作品をある面で凌いでいる。
しかもこのオリジナリティ、つまり作品が従う話法そのものの特異性と、それが要求する読解態度の新しさゆえに、この作品は――つまりアラカワのすべては ――現実にはほとんど理解されていない(例えばJ.‐F.リオタールがアラカワについて論じる外見のもとで、デュシャンについてしか分節していないのが好 例である)。
この三部作は、後の『意味のメカニズム』等の平面作品では、記述(=述語)内部における記述の否定、すなわち対立物の並置化‐短絡や、コプラ(アラカワの 場合単語間の連結線)そのものの偏執的強調‐分離‐自立化、といった<表象>(症候的表象)として出現するものを、遠近法の現実的破壊という、身体的実体 において感知させる。それは遠/近の記述的‐症候的再並置に先行する、おそらくアラカワそのものの中にある遠近法の現実的解離、つまり遠/近=述語の現実 的融合‐混濁‐鬱血‐強度を、鑑賞者に直接体験させるのである。特に作品1は、対象関係的‐非線形的に整序された述語(の基体としての遠近法‐的身体)を 圧搾し、世界把握‐身体構造を「新生児の知覚‐眼球」に還元し、意識‐身体、結合子‐脳を、鬱血し膨張したコプラ‐ペニスに変形させる、未曾有の意識=身 体の精神病化装置である。
そして作品2は、作品1では作品そのものの組織(表象)の外部に存在した――とはいえその外部とは鉄枠である作品の中につっこまれた鑑賞者の頭なわけだ が、――強度‐ファルス‐同一性を、再度表象内部に回収し、ここで鬱血した同一性‐結合子は作品自体に受肉されて、表象内部における二項の分離‐離接関係 に形象化され、作品‐表象そのものの二重化‐ずれを引き起こす。ここには後のアラカワの中核でありすべてでもある、運命の反転運動が、ツインという表象水 準での完成した=抽象化された様態をもつことなく、その反転運動の物理的(身体=表象的)ダイナミズムの相において端緒的に出現する。
そして外化した脳‐意識となった鉄のケージは、再度形象‐表象に回帰していく。つまり鬱血した新生児的眼球の無時間性は、言語的‐共時分節的無時間性に移行するが、このとき、言語(作品‐表象‐記述‐述語)は、その真の主語(またはコプラ)を、その回帰の開始する一瞬前の時間から、つまり作品の外部、ある いは内側の空隙(鉄ケージの内部)から、腹話術的に受け取っている。これは作品3で展開し、そこでケージはアラカワの好む障子張りの部屋のような軽さに変化する。ここにおいて、部屋‐場所は鬱血した身体‐コプラを排除して、その力能をある種テレパシー的に受け取りつつも、それ自体記述の線形空間として自律 ‐自閉するので、結局、すべてはこの場所‐形象に包摂される。つまり享楽的‐自他未分的な脳の鬱血‐絶対的受動性は、記述の水準における自他未分、つまり 論理的固有名「これ、あれ」、すなわち「ここ」に純化される。それは分析哲学的症候としての、あくまで明示的記述としての「ここ」であり、主語に対する過 去‐無意識‐諸物の側からの、述語(の認知的基体)を通じた逆規定を排除している、純粋抽象性としての「ここ」(=主語)である。いいかえると作品1で身 体的享楽として圧搾されていた時間‐対象関係は、ここでは主述結合子beが本来もつ往復運動(という時間‐対象関係)の、論理的固有名に向けた圧搾、ある いは結合子の固化‐揮発、主/述の同位相化と記述の平面化(=障子張り化)として転調される。そこで生じるのは純粋意識=言語の相における自他融合であ る。
つまりここで、今日アラカワが都市建設を通じてめざしている「懐かしい場所」のミニマルユニットが完成する。そこで過去や無意識、あるいは対象関係‐対他 関係は、人間(鑑賞者)の中にでなく、あくまで形式言語としての場所の中に外化して存在する。つまり今日彼のいうように、風景に「相」が書き込まれる。それゆえ作品3は人間が複数入れる大きさに拡大するが、とはいえここで「共同性」は、あくまで場所‐記述にのみ線形化して書き込まれており、人間は「懐かし さ‐不死‐結合関係」を、場所の側から贈与される。そして場所の「ここ」を支える、その裏側に排除された新生児的眼球‐身体強度を、作品は「ここ」の内 側、ないし裏側から不断に備給され、同時に場所そのものの軽量化(=意識化=言語化)の感触と相まって、上方に向け、わき上がるような反転運動が開始す る。これは後の作品では、上/下反転‐ツイン形態として抽象化されるが、この反転を支えるのは、かくして、単に鏡像的ではない複雑な過程の融合であり、そ れがここに開始する。
さらに加えて、この「懐かしい場所=共身体」は、それ自体は言語的に自立した空間なので、いわば分析哲学的‐様相論理学的な可能世界であり、しかしこの言 語的空間は、いまや現実‐身体として受肉したので、それは無限に増殖可能な(=可能世界的に変換可能で到達可能な)現実の世界となる。つまりこのミニマル ユニットは、ライプニッツ的モナド、あるいはD・ルイス風の可能=現実世界(受肉した行列式)であり、これはアラカワのツイン的世界観(ほとんど同じ世界の同時併存)を下支えする。
したがって、この三部作は、アラカワの全世界(=人間の全世界)が可能的に圧縮され、そこからすべてが飛び出してくる、宇宙=素粒子場の開闢点たる十のマ イナス数乗秒に該当する。それは純粋な論理学的装置であり、その驚くべき抽象性‐非冗長性、極端な完成度は、いかなる賞賛をもあらかじめ凌駕するほどであ る。

作品の様態を説明する。
まず「SOCIOUS(魂の共同体)」の副題をもつ作品1は、黒い鉄枠でできた下すぼみのキューブ様のケージ(ピラミッドの上半分を取り去って逆さにした 形、あるいはコンピュータのキーボードのボタンの反転形)であり、上面は一辺約2・5メートル、高さ1メートルで、中にちょうど直立した人の頭が入る高さ にワイヤーで釣り下げられている。上面と底面は筒抜けで、側斜面は、鏡、ガラス、黒い鉄製ネット、そしてシャツやズボンなど十数枚の服を無造作に一面に張り付けた面の、四つである。
作品2は作品1よりやや小さく、あとは同じ形だが、作品1の外側に、約10センチほどの空隙を挟んで、同じ形の、ただし横四面とも鉄製ネットのケージが重 なり、作品1が上/下(または内/外)に二重化し、ずれた状態になっている。作品1をさらに上回る、非常な重量感をもつ。
作品3は同じ下すぼみの鉄枠の筒だが、底‐上面が正六角形となって側斜面は六つとなり、そのうち二つは作品1の衣服の集積体と鉄製ネットが残され、あとは 白いネットが二つ、ふすま様(よう)の白と黄色の面が二つで、全体はずっと軽い感触に変化している。上面六角形の対蹠頂点間は約3・6メートルあり、他の 二つよりずっと大きく、やはり同じ高さに釣り下げられている。作品2と3は「Communal Bady(共身体)」の副題をもつ。

作品1で最初に感知されるのは、すでに述べた、物質との連携のあらゆる排除、という、アラカワの分析哲学的基調が、作品の明示的原理として、つまり諸物の 差異の否定、という形での、諸物の利用‐効果として前面化していることである。ここで鉄と繊維(服)は、その質感の本来的対立を否定され、衣服は斜面に完全に張り付き、圧迫‐圧搾され、鉄のケージに同化する。
この鉄と繊維の関係は、例えば現代美術館に常設されている、ヨゼフ・ボイスの鉄板とフェルトからなる作品――厚さ1センチ一辺1メートルほどのフェルト板 が、人の背の高さほどに積み上げられ、その上に同じ大きさの一枚の鉄板が乗せられている――と対比すると、その異常さがよくわかる。ボイスの場合は、鉄と 繊維は、「手術台の上のミシンと蝙蝠傘」のような、つまりレヴィ=ストロースを歓喜させるような詩的対位法を奏でている。ただしL=Sはそれを知らない が、この対位法を可能にするのは、鉄という(父の)力であり、同時に破壊的で険悪な質量に対する、フェルトによる緩衝化という、抑圧物とそれに基づく世界 への、持続的でハイデッガー的配慮からなる、時間的過程である。一般に鉄やガラスはある種の危険性を配給し、その質量によって死を直接に提示するか、また は柔らかいもの(対極的材質や、鉄に与えられる曲線的フォルム)と並置され、飼い慣らされ、そのことで主体の不安を隠喩しつつ昇華する。さもなくば、鉄は ジャン・タングリ風の運動機械‐玩具に形象化され、そのとき機械は、逆に柔らかいもの‐母に対する敵意‐防衛を配給し、その自動運動によって母体、つまり (母の)反復照応運動の代補‐相同物に(母=他者を排除しつつ倒錯的に)転化する(乱暴にいえばデュシャンのチョコレート粉砕器もそのラインにある)。
いいかえると、ボイスの作品で鉄と繊維は共時的に対立せず、これは鉄と繊維を逆に置けないことからよくわかる。鉄‐無意識が発する圧迫力を、時間‐フェル ト‐対象関係(母)は持続的に受け続け、配慮しなくてはならないのである。美術家で、この鉄とフェルトを逆に置く者はいないだろう。ただしアラカワを除く なら。
アラカワなら、ボイスの作品を前にして、多量の鉄板を積み上げた上に一枚のフェルトを置くかもしれない。こういった転倒、あるいは混乱の導入、例えば既述 したブルーと淡いブルーからなる作品『意味の記憶の構築』で、一秒と一日と一世紀を並置するような形象は、しばしば、転倒、つまり反芸術的‐批判的壊乱的 なものとして、アラカワの世界を誤解させてきた。この誤解は、作品は鑑賞者の(つまり先行歴史の)無意識の何ものかを示唆し、その力で成立するはずだとい う、古い隠喩的(神経症的‐左翼主義的)読解態度の産物であり、さらにその態度では何も知ることのできなかった評論家たちの、自己欺瞞に他ならない。時に この転倒は「ユーモア」とも表現される。ユーモアとは、やはり何か(無意識‐危険物)を飼い慣らす‐隠喩する作用だからであり、しかしアラカワほどユーモ アと無縁な世界はなく、そこで評論家は、自分自身の無理解‐無能という危険物を、ユーモアという言葉で飼い慣らす。
作品『ボトムレス』に戻ると、これほどアラカワの作品の中で、これらの逃げ口上をあらかじめ封印するものはない。この鉄のケージは、鉄のケージ以外の何も のでもなく、美術史的先行物‐前意識などもちはせず、鑑賞者の好み‐過去‐無意識にも語りかけない。壁面に張り付いた茶色や赤いチェックのズボンやシャツ は、いかなる意味でも美しさ、詩的情緒とは無縁であり、完璧に物として、押しつけられ圧されている。その結果、それらは物であることさえ失う。もしこれら の衣服を、何らかの反芸術的身ぶり、ないしユーモアだと(無理に)決めこむ者がいるなら、作品はそこで消失する。アラカワの世界が要求するのは、常に完全 な「まじめさ」であり、この作品はそれを最も明瞭に示すことで、ある種啓蒙的でさえある。
この衣服の圧迫は、繊維の鉄への同化という物質的差異の抹消を行使することで、時間の抹消をも行使する。古い衣服が喚起するのは、普通、懐かしさや過去、 母(対象関係)、無意識だが、それは現実的には、繊維が配給する柔らかい感触が、線形に区画された言語‐意識的想起の河岸にある、累積的な認知‐対象関係を隠喩、ないし直接に喚起するからで、それに対しここでは繊維が物理的に圧迫されることで、時間の累積性‐母との持続的照応性(の隠喩)は粉砕され、記憶は言語(的想起)の水準に同化される(ちなみに先述のブルーと淡いブルーの作品で、それ自体は最終的意味をもたない言葉として、「過去の、今は現在の想起 する行為/現在の、今は過去の記憶」を引用したが、ここに記憶(過去‐母‐時間)が想起(現在‐意識‐記述)へと不断に還元されるアラカワの常なる傾向性 を見ることは可能だろう)。
そして人は、この中空に漂う(とはいえ微動だにせず静止する)グロテスクな宇宙船たる鉄のケージに、腰をかがめて接近し、下から内部へと頭を挿入することで、この物質と時間の圧搾が、まさに自分の頭の中で発生することを体験する。
正確にいうと、このとき頭は下すぼまりのガラス・鏡・鉄ネット・衣服の周囲四面から圧迫され、だが一瞬後には、逆に同様の圧力で脳髄は膨張しだし、この ケージの内腔全体に脳は拡がり、その力はすべての時間と物質を押しつぶして、過去の記憶=衣服の群は脳表皮‐鉄斜面に一挙に投影され、その情緒的‐物資的 手触りを失いながら、意識‐記号へと組織変化し始める。この、諸感覚が沸騰し混合するような空間で、<今、ここ>というケージの内側以外の、すべての時間 と物質は消し去られ、ほとんど空白感に近い緊張‐興奮が発生する。これは脳の享楽化、身体の意識化、あるいは逆に意識‐言語の身体‐強度化、つまり脳‐意 識が膨張(erectio)し物質となっていく過程である。
デビッド・リンチの最初の映画に、人間の脳が消しゴムになる(脳をつぶして消しゴムを作る)作品があったが、これはそのボルテージを、さらに上げたものと いってもいいだろう。
この過程を普通の者が体得=実践するには、この装置がもつ話法を、十分理解する必要がある。
再確認するまでもなく、この装置は過去と無意識の粉砕器なので、何ものをも隠喩せず(つまり幸福を与えず)、鑑賞ではなく、実践‐体得、つまりアラカワの製作過程の反復‐再臨、その変調のみが要求される。
その過程は、既述した圧された衣服のみでなく、周到な仕方で配置された、この装置の他の諸部分によって、<論理的に>配給される。
まず側斜面の鏡だが、鏡はむろん、アラカワに常につきまとい、その世界の最終的局相(表象水準に回帰した次元)での組織原理を凝縮して提示する(例えば 『双子の習作』等での同一二語の連結、ブルーと淡いブルーの作品等で登場するダ・ヴィンチ的鏡文字、そして『養老天命反転地』等での諸物のツイン化、さら に上/下の反転……)。しかしそれは複数の過程‐メカニズムの統合の効果としてあり、したがってアラカワ=鏡という事後的な読解(無読解)の効果を被ることなく、まずケージの鏡の具体的作動を解放する必要がある。
ここで鏡は遠近法の解体装置として端的に作動する。すでに解説したように、遠近法とは、世界を第三者(Autre)の視点のもとに、自らも一対象として マップする現実の認知装置であり、対象関係と累積的時間に帰属し、強弱‐段階性(グラデーション)をもった世界の把握を基礎づける記述‐述語の、現実的な 基盤である。すなわち遠近法の解体とは、「私とあなたは世界を同じ場所で見ていないことを人は常に忘れている」ことの不可能化の招致であり、世界の普遍性 ‐という幻想の解体であり、同時にすべての認知‐物質の、純粋言語‐意識‐現在に向けた解消の招来である。ここにはアラカワが「サイト」の概念系で近年語ること、「人々が別の場所で世界を見ていることを現出させ、そこに新たな知覚=実践を降下させる」、という主張がすでに現実化されている。
具体的に解析すると、鏡はその存在地点(枠)と虚像地点にずれをもち、人はその存在地点(鏡そのもの)に惑わされるので、鏡の前での身体のわずかな移動は、実在物を前にした移動と異なって、予期せぬ虚像の運動を引き起こし、脳に記載された空間平面図は壊乱される。つまり人は、世界がまさに自分の視点からしか見られていないこと、世界が第三者に支えられていないことに直面する。加えて、身体移動と虚像移動の不協和は、単に空間認知だけでなく、時間の感覚を解体する。つまり人間の本来的時間は、感覚の移動‐変化の微分としてあり、厳密な現在‐細断された一瞬は存在せず、しかしここで移動‐変化は壊乱されるので、人は次々に継起するバラバラな一瞬ごとに存在することになり、空間‐時間、つまり物質‐過去の両者が解体する。
このことは、ここで鏡が鉛直線‐身体に対し傾いていること、鏡に小さな穴があることで、十全に実現‐加速される。そして鏡をもつケージ全体は、周囲への視線(自然な視覚の到来)を遮断し、この過程の前提条件を準備する。
そして他の二面、ガラスと鉄の重いネットは、さらに別の形で壊乱を援助する。ここでガラスは純粋な透明物質として、非意味論的に存在する。つまり水槽のような半透明性‐半透過性、無意識の前意識への重ね合わせ、あるいはデュシャンの『大ガラス』のごとき、作品形象に逆面からの透過像の重ね合わせが引き起こす現在的運動による、形象‐記号の再物質化‐未決定化‐身体化(つまり記号=男性の物質=女性化)等の、いずれにせよ意味論的半透明性の水準には、この鏡は存在しない(補論参照)。それはきわめて硬質で身体に危害を与え、しかも割れる危険を常にもち、見えないことで視覚を無力化し、さらなる認知的緊張を要求する、純粋に認知破壊的な物体である。それは鏡の対面の鉄ネットが、より象徴的な次元でも身体の捕獲‐束縛を行使するのと同様に、主体を遠近法と時間から剥離させ、このケージ内に固化させる。
しかもここで、このケージ全体の下すぼまりの構造が有効に作用する。このケージがもつ逆台形のような形は、一見して不安定感を与え、上述の認知的壊乱に寄与するが、その中に頭を入れた時にこそ、この転倒した踏み台の形は、決定的効果を発揮する。すなわちケージに頭を入れた人間は、その斜側面への注意を要求されるので、自己の下半身は視界になく、それはすでに確立した身体図式‐遠近法の記憶の中で処理‐把握されている。他方で、人間の視覚は、認知工学が最近 電算処理化したように、一群のトークンを連結処理する(=ゲシュタルト形成する)と、それを直接知覚してない部分にまで延長し、その存在を仮定する。この 過程は大脳の想像的次元でなく、認知の基底部分に帰属する。それゆえここで、ケージの中の「囚われの脳」は、側斜面を下・手前に延長し、特に、ガラスやネットという、それ自体の存在がもともと把握しづらい物質は、この認知的補填操作を強力に惹起する。すると、下半身と、足下に向かってくる側斜面は、認知 過程で衝突することになり、下半身はガラスやネットの鋭利な面の食い込みを受け、身体はそこで切断される。
このとき、遠近法の粉砕は完全になる。人はここで、他者と厚みのある過去の時間と、そこに基づく強弱と奥行きのある物質世界を失うだけでなく、自らの身体をも喪失する。知覚はケージの中に完全に囚われ、網膜上の映像、すべての知覚はケージの内面と同一化する。そこでは遠近法という、(記述‐思考の基体たる)世界の範疇化‐強弱化‐形容詞は完全に破壊されるので、思考を可能にする述語の基盤は、結局この鉄の網膜面上だけとなり、意識はケージと一体化する。
それは新生児の眼球となった意識だが、しかしそこで知覚は、物質が与える時間の中での漸進的構成を得ないので、この眼球は、何かを見る眼球ではなく、視覚を意識‐言語的抽象性へと還元する眼球である。意識はケージの内壁面の網膜となり、しかしその網膜は、このケージという意識‐形象‐記号しか見ていない。
かくして脳がケージ内に膨張し、ケージが脳を受肉することで、作品2の局相への移動が開始する。

作品2は、それ自身が脳となった鉄ケージが、自ら思考を開始する瞬間である。したがって作品の空洞はずっと狭まり、人はここに頭を入れる必要はない。外から彼自身(ケージ)が思考しているのを見れば十分である。
すなわち作品1において、遠近法という述語の実体は破壊され、鬱血し同時に空白でもある思考‐強度が準備されるが、この思考は、思考を支える諸項(遠い/ 近い)、ないし諸項の差異をもっていない。それは極度の認知的緊張が、遠い/近いという一つの対立、二項の差異を、無数の対立、無数の差異に分解してしまったからで、その結果無数の差異‐意識の沸騰は、差異の不在‐意識の空白に近似しだし、遠い/近いは、その間に無数の差異を抱えることで、対立は無意味 化し、両項はほとんど同値化する。
これはそれ自身において無数の対立をはらんだ、ただ一つの等号‐結合子、あるいは鬱血するコプラ‐ファルス‐新生児的眼球が、結合すべき主語と述語、正確 にいえば、主語を記述すべき述語の関与的(有意な)差異‐共時分節をもつことなく、それ自身で打ち震えている状態である。この状態の前面化、熱い破壊の過程に継起する重質の空白が、この作品2の過程である。
それゆえ作品2は作品1よりさらに重く、より静謐であり、これはケージを吊り下げるワイヤが、作品1では斜めで不安定な動感をもつのに、作品2では鉛直と なって、安定感に移行することにも伺われる。そして危険な認知阻害物としてのガラスは排され、無数の空腔‐空項からなる細目のネットに置換され、鏡には気孔ともいうべきはっきりした穴が規則的に穿たれる。そして圧された衣服は、すでに完全に抽象化された(=記憶の破壊を終了した)、ただの複数のフェルト片のモザイクに変化する。
ここでケージは思考のための諸項をもたないが、思考そのもの、すなわち諸項の結合、正確には、情報要素(形象、シニフィアン)の他要素に向けた変換、回付は絶え間なく続けているので、その内部には常に自己循環的な運動がある。それゆえ近寄ると、わずかな振動音が聞こえてきそうで、これはちょうど線香花火 が、激しい火花(=作品1)を散らしてから一旦熱球へと閉じた時の、うなり声に類似している。そして鏡はすでに内側の脳に対面するものではないので、自らが呼吸するための穴をもち、同時にこの穴を通じて、自らの分身ともいえる鏡の外側のケージ面と交通する。
つまり、ここで諸項をもたない思考という特殊な運動は、それ自身の分離‐細胞分裂という固有の形態、つまりケージの二重化‐ずれ(上下への分離)を引き起こす。思考とは、通常は主述の結合であり、それは遠近法‐述語というグリッドを通じて、主語を別の主語に変換すること、つまり「ソクラテス」を「人間であ る‐という性質をもつ限りでのソクラテス」に変換することである。このとき主語‐ソクラテスの差異は減衰する。しかしこのケージは、諸項‐差異‐遠近法を もたずに思考‐結合‐変換操作を行うので、そこで差異は減衰せず、ソクラテス=ソクラテスという変換‐投影のみが発生する。したがって、ケージはその思考の帰結として、自らの全体を回付‐投影し、その形象は変化‐減衰することなくコピーされる。
したがって、ここで沸騰する等号‐ファルスは、最終的には抽象的な分析判断、分析的自同律A=Aのみを遂行し、とはいえその結合子は、確かに変換‐回付の操作なので、世界は同じものに向けて変換され、分裂し鏡像化し、アラカワを刻印するツイン化‐反転の運動が開始する。しかしこの投影、コピーとともに、重量の強度‐思考‐実体としてのケージは、現実態から可能態へと、質量からシミュラクルへと変質しだし、正確にいえば、肉体‐コプラ‐振動としての結合子‐ 自己循環的変換作用は、二つの同じ項の間の関係へと退却しだす。この変化がはっきりと感知できるようになったとき、作品3へと局面は移行する。

作品3は、自同律、結合運動の痕跡としての、結合子を挟む両項の回帰であり、項目‐形象として固定されたコプラたる、論理的固有名‐「ここ」の定着である。それは思考の側からの、現実の場所の贈与であり、復帰である。ここで思考の主体‐主語としてのケージは、述語、つまり遠近法の側に移行する。これは主体‐強度としての思考‐ケージが、記号‐形象に移行することと同値であり、したがっていったんモザイク模様へと揮発化した衣服の群は、作品3では、再度現 実の衣服となり、しかもそれは作品1より、よりカラフルで多様である。
現実には、人がそれとして見続けられる形象は、作品3の位相であり、作品2はそこに至る一瞬の相である(作品1では、人はまだ過去の記憶をもっているので、自らを破壊されつつ、それを見られる)。例えば、作品2はケージ=脳(=剥奪された鑑賞者)が思考している状態だが、ここで思考は絶え間ない結合‐回付の作用として沸騰しており、その主語を措定できるのは、その沸騰が立ち去ったのち、ケージが主語から述語へと退却した、作品3の時点においてである。 ――したがって、もし「ケージが思考する」という表現を「文学的」だと考える者がいれば、彼は何も理解していない。確かに脳のニューロン発火が思考しているような意味では、ケージは思考していないが、しかし「足の運動が走る」という表現が奇妙なのと同様に、この表現は奇妙であり、思考するものがあるとすれ ば、それは常に何者かである。そして「私が思考する」と言表されるとき、思考‐結合運動はすでに終わり、私は思考しておらず、要するにここで主語私とは、 「ソクラテスは人間である」という思考‐分節が終了した瞬間としての、主語ソクラテスと同様に、思考‐演算の痕跡、消失の記号なのである。したがって形象 ‐作品の組成が、肉体的強度‐コプラから、ある種の減衰を経て記述‐述語の相に移行するとき、その主語は、まさに述語の所有者=述語の前身たるケージとし て発見されることになるだろう。
作品3は、それゆえ形象、ないし諸項と場所の回帰でありつつ、科学的に突き放してみれば、ある種の疲弊と、痴呆化の始まりの相でもある。すなわち作品2において、思考は捕捉不能な早さと差異の中で回付‐結合を続けており、そこでは等号‐コプラを挟む両項は、それとして見ること‐現れることを許さない。つま りコプラは存在しても、諸項、例えばソクラテスは、(遠近法‐述語がないので)無数のソクラテスとして対立し、それぞれの瞬間において、等号は一つのソクラテスから別のソクラテスへの変移でしかなく、そこで最終的には、無数の差異=ソクラテスが無数の差異=ソクラテスに回付‐投影されるとしても、具体的諸 項の同一性は存在しない。そして諸項、ソクラテスが可能になり、発見されるとすれば、それは現実には回付の速度の低下と、差異の減衰、要するに、差異の集積体としての全体‐ソクラテスを、単一の項‐全体としてのソクラテスとして発見しなおす、意識と身体の疲弊化が生じるからである。このとき、遠近法の破壊 によって獲得された、絶対的不等号としてのコプラ‐ファルスは、現実的自同律を獲得し、新生児的眼球は「すべてを見る」のでなく、一つのものを見ることを 獲得する。つまり作品1における、遠近法の破壊による現実的差異と諸物の解体、純粋抽象性としてのコプラの招致は、ここでそのコプラの振動の疲弊ととも に、諸物の不在の中から、逆に新たな論理的主語、「ここ」という真に抽象的=超神学的場所を招来することを帰結させる。
この、超神学的場所の到来の過程を、より論理的に記すなら、まず、ここでひとつのソクラテスは、意識‐強度の疲弊とともに同じものとして再発見され、つま りソクラテスは述語の側に移行することで、最初のソクラテスを主語として定着し、そのときコプラを挟む両項が初めて現れ、A=Aが現実的に可能となる。しかしここで最初のAは次のAにおいて差異を減衰され、コプラは時間的方向性=減衰化の記号になり、最初の絶対不等号的等号としての無方向性を喪失する。それゆえ、全体としてのケージの思考、ケージ=ケージ(私=私)は、自己減衰化の時間をもち、述語という減衰の場所、二番目のケージから、初めてそれ自体、 つまりケージ‐私として発見される。これは減衰=分節された場所から規定されたものとしての全体性=無媒介性であり、つまり言語‐意識の場を経て、すでに 強度としての性格を失った限りのものとしての無限定性=身体的全体であり、それはいいかえれば、論理的固有名=場としての「ここ」である。
そしてこれは奇妙なことに、純粋論理的な操作による、母親の創出に他ならない。それは作品3を、「懐かしい場所‐懐かしい都市」の論理的最小単位として現出させることを可能にする。
つまり、まずソクラテスとは、もともと具体者ソクラテスに向けて与えられた名前であり、それは既述解説したように、ソクラテスを模倣する母の現実的時間の中で構成される、一つの記憶‐声‐物質である。したがってソクラテスとは、本来ソクラテス=ソクラテスという二項からでなく、ただ一つの項として生成し、 これはすべての言葉‐単位に同様に当てはまる。しかしこのケージの中では、遠近法と諸項の破壊とともに、現実的に駆動不能となったとはいえ、すでに言語としての等号‐思考、あるいは意識があらかじめ準備されている。そしてその等号‐コプラ、純粋に言語的‐非累積的な演算子は、形象‐遠近の破壊の波の引き潮 とともに、つまり差異の低減、意識の疲弊、いいかえれば無数の意識ではなくただ一つの意識‐演算‐等号が可能になることと並行して、自らと諸項‐諸形象を再発見する形で駆動しだし、任意の項‐ソクラテスを反復‐結合‐記述して、その同一性を再確立する。そこで同一性への道のりは、通常とは逆向きに、反転して歩まれる。
要するにこれは、母親による形象‐記憶の贈与でなく、意識‐想起による母親の創出である。
あるいは等号(be、は)という述語を待つ待機の作用、他者への依存と期待に基づく幻想の作用は、現実の他者からでなく、等号を挟む諸項の回帰、差異の減衰、緊張‐強度の低下とともにやってくる。いいかえると、同一性‐形象は、現実世界の側の強度の減衰によってスピノザ的に到来するのでなく、意識‐言語の中において、同じもの、あるいはわずかな変異をもつ類似体という、可能的なもの相互の関係として、ライプニッツ的に到来する。
それゆえ作品3の形象は、あくまでも言語がもつ性質としての線形性‐同質性と軽さをもつ。
それが作品3の、明るく、しかも軽い様相の実体であり、ここでケージはもともと無意識をもたず、物質と切断され、しかも作品2のような、それ自身の激しい思考、強度と身体に由来する、ある種の不機嫌さからも解放されて、軽躁状態に移行する。
ここで緊張(=結合子の専制)の緩和とともに、諸項=諸形象は回帰するが、それは物質と記憶、要するに遠近法をもたないので、諸項の結合における述語の遡及決定は駆動せず、結合は基本的に並置であり、このとき痴呆化がさらに進むと、ソクラテス=ソクラテスを可能づけた、差異の減衰はさらに進み、いいかえると両項間の許容されるわずかな違いは無限に広がり、これはソクラテス=人間=プラトン=プラテノドンといった、諸項=形象の無限増殖にさえ帰結する。
いいかえれば、ケージはここで相変わらず新生児の眼球だが、それは自己循環的強度から離脱して、形象‐要素の結合を操作しだし、しかし彼は無意識と記憶をもたないので、彼にとって1秒・5秒・2週間・1世紀は、単に同じ形象‐言葉として、自由に結合可能である(この異なる時間のランダムな相互結合は、既述のブルーと淡いブルーの作品からの引用であり、これはアラカワの世界で頻出する)。
したがって、この作品3は、作品2と潜在的に結合し、作品2が表象‐意識の位相に捕捉可能な形で残した残像として、存在‐了解せねばならない。さもなくば、遠近法の破壊と抽象的強度の創出の効果としての、「今、ここ」という分析哲学的同一性は、何もかも一緒という、痴呆老人的な同一性、――精神医学的にいうならば、無数の言葉‐イマージュが氾濫する急性精神病状態のあとに到来する、持続的な無為‐痴呆化の過程へと転化する。そのとき、作品3がもつ軽躁感 と、斜側面の増殖(4面から6面へ)という運動は、その存在論的核(すでに見えなくなった、内部のブランク=脳=強度)を失い、ただのふすま細工という、 日本的精神病=無意識欠如=自己欠如に移行する。アラカワの「懐かしい都市」の建設が、日本で許容されるときの政治的危険性は、唯一ここに収斂する。
だが、ここで「懐かしい」ということ、つまりこのケージがもつ「ここ」あるいは「母の創出」としての作用を、さらに厳密に考えるなら、ここまでの考察は、 形式的水準にあまりにとどまりすぎている。

ここで人は、側斜面の増殖や鏡の廃止、全体の拡大化、といった、一見して目につく作品3の変化だけでなく、その一側面の黄色いふすまに結びつけられた、何気ない一本の紐に注目することを求められる。例えば大量の圧迫された衣服が、脳神経学的‐精神医学的、つまり情報工学的考察のみで十分に事足りるのに対し、この一本の紐は、精神分析的な考察をも必要とする、やっかいな代物である。
この紐は、アラカワの記念碑的作品『母の肖像』(『肖像№1』1961-62)に構造的な類似物をもつ。すなわちMotherと名づけられた(具体的には その語を基点とする矢印→の先端にある)点を名づける、もう一つの語「Mistake」、あるいはその点がもつわずかな色のずれ(遠くから見ると黒点だが、実際には赤・黄・緑等のわずかにずれた重なりである)、さらに「Mistake」という語が同様にもつ多色混合性が、それである(この作品のメカニズ ムは、同一性(=同一点)の抽象的‐記号的な転倒形成という点では、作品3に基本的に類似し、ここでは特に分析しない)。
作品3の紐、あるいは肖像画の「Mistake=錯誤」は、作品3の軽躁感を本質的に配給する、ある種の遊びと冗長さという、軽い「錯誤」、同時にその陰のわずかな甘えの感覚をも意味する記号である。対象関係学派なら、この紐は移行対象であり、母と自己を「結びつける」ものとして躊躇なく判断するだろう。 確かにアラカワの世界は精神病的だとしても、荒川自身は普通の人間として無意識をもつだろうし、この判断は一定の正しさをもつはずである。
だが、人(作者)の過去を詮索するのは退屈なことだし、むしろ重要なのは、その移行対象としての基本組成、つまり、総体的緊張‐危険‐緊迫性から解放され、ある種分離し隔離された空間で可能になる、それ自身の冗長さ‐無意味さ、わずかな偏位の享受という、玩具‐幻想的対象としての性質である。これは子供が机に残す、小刀のトラス(きずあと)のようなものであり、それは等身大の幻想として回帰したコプラ‐ファルス‐結合子、すなわち傷つける行為の中で、傷つけられる前と後、傷のない平面と傷つけられた平面のわずかな差異を創出しつつ、それを再結合するような装置である。作品3の局相で、ソクラテス=ソクラ テスが可能になるとするなら、それは二つのソクラテスのわずかな違いを創出する、この小刀、あるいは黄色い側斜面に穴をあけ、紐を結びつける、冗長な時間 =換喩的無意味さが、差異‐強度の総体的減衰とともに動きだすことによる。
とはいえ、本質的にはこの運動は、ケージの中空の強度‐自己循環運動の、側斜面上への逸脱‐痕跡‐射影として配給され、したがってこの紐は、側斜面‐諸形 象‐ふすま紙を、構造の基底では(日本の)母に向けてでなく、重く危険な内部の空白、振動するコプラ‐ファルスへと結びつける。紐がもつ自由度は、内部振動‐絶対的自己同一性(=非同一性)から飛び出てくる、クリナメンの偏位のような冗長性にのみ帰属する。
したがって、人がアラカワにしばしば見る「ユーモア」が、この紐の構造的同一物を常に意味しているとしても、それは(遊びとはいえても)ユーモアではなく、そこで人は、内部の空白体=強度=死という自らの避けたい危険物を、この神経症的な言葉によって抑圧し隠蔽する。それは上述した、アラカワにつきまとう唯一の政治的困難の一表現である。
かくしてこの紐は、いまや内部の強度‐脳を消失し、側面の形象‐ふすま紙のみとなった鉄ケージを、常にその一瞬前に存在している作品2の不在的現前、絶対不等号的等号としてのコプラ‐振動に結びつけ、その射影として存在させる。そのことの効果としてのみ、この紐は、同時にケージを母に結び、新たな冗長性を創出し、ケージの内部空間を、新しい共同性の場所として確保する。
それゆえこのふすま障子で囲まれた共身体空間は、強度‐鬱血のあとの軽いめまい、身体離脱感を内在させ、あるいは極度の集中の後の、意識のもつれ、思考の滞りの感触を、自身の構造の必然的帰結としてもっている。つまりこの横六面のついたては、先行する強度‐意識にとっては、それを遅延させて映し出す、幻想 ‐鏡のような場所であり、それゆえ作品3には、鏡はそれ自体として必要ない(6)。そこでは、今や脳でなく、脳の射影となった懐かしい場所‐鉄ケージは、 脳の思考そのものを減衰し、映し出しつつ、自らは軽量化し、それとしてはすでに見ることのできなくなった内側の白い強度‐脳髄の上に、上昇する。脳はそれを、自己の中から到来した、しかし新しい場所として、親しみと懐かしさをもってみるだろう。
これは脳の「運命」であり、あるいは「運命の反転」である。ここにおいて、自己あるいは自らの脳=意識=強度の再帰した形象‐鏡像たる、「ここ」という <存在の論理的固有名>が、上空へと反転上昇を開始する、アラカワの世界が完成する。
したがって、一つの基体‐意識‐形象が鏡像的に反転され、あるいは基体がわずかにずらされながら、それ自身の再獲得された場所‐意識として転写される運動は、作品1から3に至る、ケージの全局相を前提としてのみ可能であり、あるいはそれらの残像的効果として出現する。そしてこの、ケージのたどる全過程が、 ケージそれ自体の形に最初から刻印されており、すなわち底面の方形が、拡大‐意識化‐減衰化されながら上方へと射影‐移動され、その軌跡として側斜面‐諸形象が獲得され、それが全体としての逆台形に帰結する。この、ずらされた写像の重ね合わせ、という運動は、例えば『42プラス』(1966)や『187』 (同)など、アラカワの世界に頻出する。
そしてケージの最終局相、形象として獲得された共身体空間には、確かに思考の軽いめまいがあるので(なぜならそれは新生児の思考なので)、ソクラテス=人間=プラトンのような、あるいは花は桜のような、過剰な形象‐言語連結への傾向がつきまとう。しかしそれは基本的に、内部の質量の重力に拘束されて、連結 ‐増殖の無際限さを禁止される。つまりケージの内部の不可視の強度、端的には意識の死は、表層の意識‐語結合を司るコプラ‐結合子(be、は)の基体であり、その拍動は表層での形象増殖‐語結合を推進するが、同時にそこで死の不吉さ、不機嫌さは、その効果としての言語=意識に軽躁化と自由への歯止めをかけ、意識はけっしてそれ自身たりえないこと、強度‐死の効果でしかないことを、常にすでに知らしめる。そこでは意識‐語結合における結合子の過剰な力、諸項‐意味の自律性と自尊心を、常に剥奪する重力が作用する。
つまりここでは、何かを結合する力はあまりに強いので、一秒は一世紀、人間はソクラテス、花は桜のような論理が出現するが、その論理‐言葉は、それ自身としての冗語的‐躁的な自由をもっていない。つまり表面上は、「花は桜」のような軽い意識の喪失があっても、そこで<be、は>は相変わらず沸騰し、その沸騰にこそ結合の価値はあるので、両項の存在‐関係自体は、二次的なものである。そしてこの<は>は、不可視となったケージの内部‐強度から到来し、かつそこに呼びかける、想像的な声であり、つまり既述の斜面の紐が、形象‐ケージを内部強度としての母に結びつけていたように、この結合子<は>は、強度に呼びかけ、あるいは強度から呼びかける。既述のごとく「ソクラテスは人間である」という通常の思考が、その結合子(be、は)において述語を待機し、その待機 は、もともと母に向かい、母から可能づけられたものであったように、ここでも意識を生む結合子は、同じく母に、とはいえ内側の強度‐空漠‐死たる母とつながり、しかしそのつながりはここで余りに強いので、それは結局、(表層で)主語が述語を待つことを許さない。
したがって、この最終的な共身体空間‐懐かしい都市において、その一瞬前の局相たる強度‐死は、ある種の隠喩的関係により、「今、ここ」を支配する。とはいえそれは、意味と過去の記憶による隠喩ではなく、強度による遠隔作用なので、神経症的‐美的な隠喩ではなく、パラノイア的‐物理的隠喩とでもいえるものである。したがってそれは、日本的精神病の三段論法の帰結「花は人、桜は武士」が死を隠喩するような意味では、死と関わらないが、しかしその論法の前提説 「花は桜」が、ある種過剰な他者への情動、とりわけ死や恐怖の効果としての情動を胚胎した結合子<は>によって出現する意味においては、死の隠喩的効果を 配給する。つまりアラカワの「懐かしい都市建設」は、日本を自らの「新たな」故郷として再形象化する、内的必然性をもっていたと言うことも、ある意味では (非常に微妙なところだが)可能なのかもしれない。

最後に作品『ボトムレス』後のアラカワの展開を、少しだけみてみよう。
これに続く時期の彼の作業は、『意味のメカニズム』に集約されるだろうが、この作品は、その平面性という基本的組成により、『ボトムレス』作品3の位相に 自らを配置する。したがってそれは、運動の痕跡図のような面をもつので、読解する側には非常な困難がつきまとう。特にそれが、聞き慣れた哲学的字句(に一 見近いもの)を散りばめていることもあり、困難はより大きい。その意味で、その後のアラカワが三次元空間に再帰したことは、本来の彼自身の姿に戻り、作品の伝達能力を高めたともいえるだろう。
もちろん『意味のメカニズム』は、固有の豊かな論理的内容をもっている。ここでそれに触れる余裕はまったくないが、しばしば引用した、ブルーと淡いブルー の作品についてのみ最後に触れておく。
この作品に現れる鏡字や、まったくスケールの違う時間(の言葉)の連結の意味については既述したのでくり返さない。この作品では、二グループに分けられた 単語間を連結する線が、アラカワの作品で常なるごとくランダム化し、特にその線は極端に増えて、タブローの一番上では面状化し始める。これは既述のように、形象内部に回帰した症候としての、コプラ‐強度であり、死であるといえるだろう。とはいえ、ここで単語同士を結ぶ線を、単語を結ぶ、つまり言語的‐記号的なものでなく、ただの線としてみると、この絵は小脳の配線図、例えば苔状線維から顆粒細胞を経てプルキンエ細胞に向かうようなニューロン網を喚起させる。つまりここで連結線は、言語と意味作用をモデルに出現しながら、実際はパーセプトロン状の非言語的(非線形的)な情報装置、つまり身体‐情動を描いていたわけである。
真の芸術は、こういったことを偶然的‐必然的帰結として生じさせるので面白い。それは自らの後からやってきて、それを解析する者にささやかな快楽を与える。とはいえそういった(野性的)偶然が、芸術を通じて得られる僥倖は、科学の圧倒的進化ゆえに今後はさらに困難だろう。したがって、くり返し語られ、その深刻さを次第に濃くしつつある、最後の芸術家という範疇に、アラカワが限りなく近づいていることは確かである。

補論:《デュシャンとの関係》 シュールレアリスム、特にデュシャン、マグリットと比すことで、アラカワの非神経症的‐非倒錯的な特異性は、よりわかりやすくなるだろう。それらはアラカワと異なり、意識‐無意識を経過した上での作品運動をもつので、言語的分析を受けやすいからである。当初予定していたこの 対比は本稿では断念するが、ここで以下のことのみ喚起しておこう。まず、デュシャンが(例えばリオタールのいうような)「性的差異に基づく世界の配置‐去勢の受容」などでなく、逆に「性的差異の<止揚>」を遂行したのは確かであり、これはいうなれば、ホルバインのペニスの伸縮(あるいは死)をチョコレート 粉砕器の回転運動に変換することで遂行される。ここでは作品(紙切れ‐遠近法)と鑑賞者の内面を結ぶ、視線(ホルバインのペニス)という特異点は、世界(ここには鑑賞者の内的‐性的抑圧物も含まれる)の再現‐表象物としての作品が、鑑賞者に認識(の節約)を贈与する、<鑑賞者の無意識的快楽(伸縮‐ 死)>の場所には存在しない。そこでは逆に、視線は鑑賞者から剥奪されて作品に内化され、換言すると、作品は作品でないもの(=鑑賞者の快楽‐死)と表象 関係‐美的隠喩によって結びつかず、作品でないもの(便器=物)が作品(記号)になる一瞬の<反転>という結合関係こそが、作品の前面に登場する。つまり性的なもの‐快楽‐内面は、記号‐形象としての作品へと、それとして開示されつつ変換され、性的なもの‐身体は記号‐作品によって否定される。一般の作品が隠された身体‐快楽を表象するのに対し、ここでは身体が記号に書きかえられる、白日の下での変換過程こそが主役となる。したがって、『大ガラス』で独身 機械としてのチョコレート粉砕器の運動が、上空の花嫁‐女性‐身体を欲望しているとしても、欲望‐視線は、上空の女性によって<表象>される、現実の鑑賞者の視線‐無意識の場になく、すでに記号化された粉砕器の運動に存在するので、作品の本質的経済は、結局、視線‐無意識‐女性ではなく、チョコレート粉砕 器の造形という「欲望の昇華‐独身化」に従わされ、作品の見かけの神経症的構造(花嫁に向かう欲望の困難と不可能性)とは反対に、花嫁は粉砕器の運動にそ の存在を保証され、従属する。ここでチョコレート粉砕器の運動が、<回転>という、目的の否定‐嘲弄、欲望がもつ<上昇‐消失>過程へのイロニーの形態を もつことは重要であり、その運動の組成、つまり<回転を見る視線>という、隠蔽‐開示の相をもたない(つまり回転では新たなもの‐誘惑は何一つ現れない) 形への視線‐欲望の変更が、この作品の性的経済を基礎づける。これはモナリザの男性化でも同様で、ここでモナリザの視線は、すでにその絵をもつことに長す ぎたダ・ヴィンチの時間の中で、ダ・ヴィンチの倒錯的な、つまり欲望と世界に対する嘲笑的視線に変化しており、チョコレート粉砕器の相同物たるこのダ・ヴィンチの視線という、同様にあらかじめ準備された欲望‐視線(の対象)の記号化装置(白日の下へと身体‐無意識の秘密を開示し気化する装置)によって、 女性は作品経済の根幹で、最初から男性に従わされる。
このように、デュシャンが隠喩‐欲望の経済の臨界(または外)に作品をおいたのは確かであり、その点で、デュシャンはアラカワの先行者である。しかし同時に、デュシャンが欲望、つまり限定された一つの対象との関係における身体作用のみを論じ、無意識‐神経症を解析していることにおいては、あらかじめ無意識 を排除した上で出発するアラカワとは、いかなる関係も存在しない。いいかえると、デュシャンでは、現実の物(欲望の対象)を記号へと転倒する瞬間におい て、物は確かに駆動するが、アラカワでは、欲望そのものを0から始めること、つまりまず欲望の対象を創出することが問題であり、そこでは先行する諸物はいかなる形でも登場しない。デュシャンでは<欲望としての視線を解析する意味論>が物を「代置」し支配するが、アラカワでは、<世界認知としての視線を可能 にする現実的身体行為>が、物を「創出」し、存在させる。アラカワにおける性的なもの‐無意識の不在は絶対的であり、それゆえ端的にいえば、彼とデュシャンのつながりは、ほとんどない。


(1) 例えば『口をあけ眼を閉じて』1989-90。
(2) 形象に刻印された亀裂と曖昧さを通じて、自己(鑑賞者)の不安と欲望を感知する過程、つまり隠喩は、アラカワが完全な固有性を確立する以前の、六 〇年代初頭の作品においては、その使用を許す口実を未だ鑑賞者に与えるだろう。例えば『無題の形成』1962等は、便箋のような複数の水平線から構成され、最後の線は下方へと折れ曲がり、途中で消える。本稿後半で論じる『ボトムレス』のごとき作品を受容しない読解者は、こういった作品に「美しさ」つまり 不安や希望の<曖昧な時間>を見いだし、アラカワから逃亡する。しかしそのような見方は、この作品が抱えるアラカワ固有の「空白」のもつ圧倒的力を、完全に黙殺するだろう。
(3) ここでは『(母の)肖像№1』や『意味のメカニズム』に頻出する、単語から点やイマージュ、あるいは単語から単語に向かう矢印、また『空白の線または位相の水浴』1980-81から『The Vivid, the Virgin, the Fine Day』1982-84等に至る作品群の、乱舞するような矢印の群などを想定している。特に後者では、矢印は具体的な何かではないが、同時に空間中の、身体移動、物体移動、視線の流れ、風向き、計測、等のすべてでもあり(これらの作品で矢印群は、道路地図や家の設計図‐俯瞰図の上に書きこまれている)、それは最終的に、身体そのものの運動を感知させる。とはいえ正確にいえば、それは身体というより、認知‐身体制御、あるいは意識‐脳の運動であり、結局これらの矢印群は、意識‐身体の現実的運動の位相に対応するまで拡張された、論理的記号であり、<徴候‐症候にまで高められた論理的操作>としての移動の記号なのである。
(4) 例えば障子で囲まれた四畳半座敷の上下反転‐鏡像化からなる『ゴミ・アート』等。
(5) ここで人は、初期のアラカワが、シュレーバーを刻印する「身体の女性化‐解体、全内臓の喪失」を彷彿させるかの、(その後の作風と完全に異なる)身体的作品を制作していたことを想起しうる。『連作・もう一つの墓場』『眠りの断片』(1958~59)などは、木棺のような巨大な箱にセメントや綿や機 械部品などが粛然と押し込まれ、既述したルキショ風の内臓の詰め物のようでもあり、前意識の堆積物のようでもある。つまり始めに述べた美術史的飛び越しとは、実はアラカワの中で生じた事件であり、その背景には、彼に内在した「身体的解体と充溢」が、例えばシュールレアリストたちと比べて余りにけた外れであり、したがって彼にとっては、それを自己の(隠喩的‐回想的)快楽とすることは問題とならず、それに必要な解釈‐形を与える、論理的再形象化こそが重要だった、という事情があるように思われる。
(6) ちなみに作品2では、穴のあいた鏡に、紐ではなくより頑丈なベルトが結びつけてある。これは紐‐ベルトが常に自己意識の幻想的(鏡像的)贈与、つまり母との連結を行使すること、しかも作品2では、幻想の基盤となる自己投影の鏡像的運動が、空間強度の大きさゆえに、作品3よりさらに強いことを示している(そのかわりそれは遊びとしての自由度を喪失する)。