群像5月号『鉄の胡蝶』57回目その3
p.461 私はだからそんないろいろなメンドッくさいことを考えずに、ふつうと言ったら何がふつうかという話にはなるわけだが、ふつうの芝居を観るつもりで笑って観ていられた、しかしカフカの小説を読み出していちいちその比喩的というのか何というのか書かれたその向こうにあるだろう意味を考えたらカフカを気楽に楽しめないように、この芝居もそういういろいろなことを股間にシワを寄せて深刻に観ていたら笑って観ることは難しい。
私はそういうわけで戯曲で感じた複雑さは無視して気楽に笑って観ていることもできたというか現に私はそうだったがそれでも舞台にいて演じている人たちには、他の芝居では感じたことのない負荷が、それぞれの俳優に、俳優としてのその人になのか、芝居の中で現実とフィクションを、演じている配役としてのその人になのか、負荷がかかっていることはひしひしと感じられた、芝居の側にいる人たちなのか、それを観ている、芝居の外にいるつもりの私がなのか、この芝居のいわゆるメタフィクションの構造は見通せないでいる、私はこの負荷がかかってる感じに現実に生きる行為を遂行することのリアリティはこれなんじゃないかと感じた。
著者注)シワを寄せるところは眉間でなく股間なのです(笑)気付きましたか?