山本浩貴+h『新たな距離ー大江健三郎における制作と思考』のこと

山本浩貴+hが、大江健三郎論『新たな距離ー大江健三郎における制作と思考』を公開しています(⚠️期間限定かもしれない)。
私は高校から大学の途中まで熱烈な大江健三郎支持者だった(1972~1979)……ある時から熱が去って、自分があんなに熱烈だったことさえ忘れていた……死の知らせによって薄っすら甦りつつあったものが、この大江健三郎論によって鮮烈に甦った。
熱狂の記憶が甦ってもなおやはり『水死』にはノリきれない自分が残念なんだが、この大江論で私は大江健三郎からどれだけ多くの思考を感染したか発見した。大江の〈文体〉の定義が相手に受け取らせる力だという指摘、私は熱烈な頃まさにそのように大江の思考を自分でしていた。

この大江論は、大江健三郎を読んだことのない人にもきっと大きな贈り物がある。山本浩貴は自分が大江から贈られた思考を、これを読む人に宇宙ごと贈っている。
こういうことが起こるのは小説の祝福だ。私が評論を嫌うのは、評論家が作品を自分のサイズで解釈するからで、作品を読んでなお評論家が自分のサイズを維持していたら、その人は作品を読んだことにならない。読むことは、自分にスクラップ&ビルドが起きることだ。
この大江健三郎論は、大江健三郎によって育てられた思考で大江健三郎を読む。大江健三郎が小説を書きつつした思考が凝集されて、ここで駆動する。私はあの頃大江作品のページを開いていた視覚記憶が甦ってきた。