小説的思考塾vol.10

「ポリコレ問題ー正義と文学は両立可能か?」

今は息苦しい。原因の1つはポリコレだ。ポリコレは自分で考えることを停止して、規則を押し付けてくる。(ポリコレはポリティカル・コレクトネスと同じではない。それと別にひとり歩きしてる)
ポリコレが広まる以前に、「同調圧力」が空気をやんわり支配していた。
「もともと日本は同調圧力の国だ」と言ってしまうのは簡単だが、そう言う時、10年20年を飛ばしていたり、同調圧力がもともと強かった部分だけを抜き出している。前はこんな社会ではなかった。発言はもっと自由だった。今はもうほとんど相互監視社会だ。
1つ間違いない変化は文学賞だ。候補作がポリコレの答え合わせや応用問題や想定問答みたいな作品ばかりだ。文学者じゃなく、教室で手を挙げて答える生徒みたいになった。
規則に合うか合わないか照合することと自分で考えることは同じことではない。そんなことは当たり前だが、社会の変化は当たり前を忘れさせる。

考えることというのは一つには、「それがそう言われる起源まで遡ること」だ。それを使って、糾弾することではない。
正しいか間違っているかは、自分の生き方に照らして、自分に向かって内省することであって、相手に向かって言うことではない。青二才な言い方だが、ちゃんと生きるというのはそれでしかないのだ。
規則一辺倒の生徒指導の教師と、職員室にはなるべくいないで1人で物思いに沈んでいる先生の違いだ。
相手に向かって言うような、社会に流通している正しさに就いてしまったら、小説は自分で自分をダメにする。小説はぼそぼそ言うものだ。小声で書いたことを目を凝らして聴く。

大江健三郎は社会的発言はわりと真っ当で平凡だったが、小説となると政治的にも際どかった。大江健三郎は小説となると、外の基準など目もくれず、自分の関心ばかりになった(大江小説は音量は大きいが吃っている。語順はたいていごちゃごちゃだ)。
そして一貫して、関心の中心に四国の森があった。つまり題材を渡り歩かなかった。
私が一番言いたいのはそこなのです。
人が生涯持ち続けられる関心を追求することとポリコレは関係ない。それどころか、社会への配慮は余計な要素になる。
見るべき方向は、そっちじゃない、こっちだーーというのは、わかりきったことなんだけど、それが忘れられているのが、2020年代の現状だ。

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