【Dr. Holiday Laboratory『脱獄計画(仮)』】メモその2

この芝居『脱獄計画(仮)』は、公演の前に戯曲を公開する予定だそうです。(ここに公開されました👉 https://drholidaylab.com/Plandeevasion
この戯曲は、ト書きがとても変則的で、随所にこんな風にたっぷり書いてある。

「土井は、瀬田から目を逸らさないまま言った。彼は土井と自分の知らない男の新婚生活に思いを馳せ、想像は今自分に向けられている土井の視線と一体になり、劇場にいる自分と家のソファに二人で寄り添っている未知の男が混じり合うのを感じた。
まさか自分が新婚生活を送っているはずはないがと思いながら、しかしそうでなければなぜ「まさか」などと思うだろうかという疑念も払えないまま、両手を突っ張って身体を小刻みに震わせることしかできずに、土井とロビンに素早く交互に視線を投げていた。」

公演の前に、観客は観客として(役者とは別の立場から)戯曲を半分くらいのところまで読んで(戯曲のネット掲載も終わりまでは掲載されないそうです)、どんな舞台になるのか、想像するのが楽しいと思う。

芝居は、なんといっても生で、舞台を見ないと、広がり・奥行き・深みetcが感じられなくて、特にこの芝居はそれが顕著で、事前に戯曲を読んで、劇場に行くまでの何日間か、舞台のイメージを人それぞれ持つ、というところから、この芝居の観劇(参加)はすでに始まると思う。

以前の私は、ト書きに「不安そうに」と書いてあると、
「不安そうなんて、内面がなぜ、役者と観客の共通了解になりうるのか?」
と長いこと、ト書き的な人間観察は古臭くて凡庸で、否定的に考えてきたが、最近は逆に、内面が表情に、瞬時かつ確実に顕れる不思議を考えるようになっていた。

その流れでいたところに、このやたら長くて、内面をべらべら暴露するト書きだ。
私はこれは凄いと思う。演劇が無条件に前提としてきた人間の内面観察に対する制約を軽々と通り越した。
終わった公演は観れません。評判を聞いて、記録映像を見ても手遅れです。
芝居は全身の体験なのです。