第一学者村の先生方は、所有地の境界線にハリ金を張りめぐらすことを嫌っておられて、その云分は、互いの家から隣り近所の庭が見え、二倍にも三倍にも広々と感じようとしていらっしゃる。(小島信夫『月光 暮坂』p.288)
これは会話の一部分だけど、それにしても文章がメチャクチャだ。
「その云分は」には「感じたいんだそうだ」とか、係り結び的にちゃんと閉じてほしい(笑)。
文章とはそういうものだ。こういう風には書きたくても書けない。文末は文頭を受けるように染み付いている。
これをやらない(=小島信夫風にやる)のを常々心がけているとたまに出来る。その時、自由の風がザザッと吹き抜ける。
文章を書くことは常に全体を監視することなんだが、こういうことをうっかりやってしまった瞬間だけ、書いてる意識が、いま書いてる文の先端に集中してたのだ。