ここにある小説の希望【中編】(『小説、世界の奏でる音楽』5)

『古事記』の驚くべき読み方

 このことと深く関係していると私は感じてこれにも感動したのだが、英米文学者の大津栄一郎が書いた『古事記 上つ巻』(きんのくわがた社)という本がある。表題に「上つ巻」とあるのは、『古事記』本体の「上つ巻」「中つ巻」「下つ巻」に対応して、これから「中つ巻」と「下つ巻」が出版されて、全部で三巻になるからなのだが、それはともかくとして、この本の『古事記』解釈、というよりも純粋に読むという行為の深さがすごい。
 まず、私の手元にある岩波文庫と角川文庫の『古事記』の読み下し文と注を並べる。

天地〔あめつち〕初めて發〔ひら〕けし時、[一]高天〔たかま〕の原に成れる神の名は、[二]天之御中主〔あめのみなかぬしの〕神。次に[三]高御〔たかみむすひの〕神。次に神_日〔かみむすひの〕神。この三柱〔みはしら〕の神は、みな[四]獨神〔ひとりがみ〕と成りまして、身〔み〕を隱〔かく〕したまひき。(岩波文庫、倉野憲司校注)
(注)一 天上界。 二 高天の原の中心の主宰神。 三 以下の二神は生成力の神格化。 四 男女対偶の神に対して単独の神の意。

天地〔あめつち〕の初発〔はじめ〕の時、高天〔たかま〕の原〔はら〕に成りませる神の名〔みな〕は、天〔あめ〕の御中主〔みなかぬし〕の神[一]。次に高御産巣日〔たかみむすひ〕の神。次に神産巣日〔かみむすひ〕の神[二]。この三柱〔みはしら〕の神は、みな独神〔ひとりがみ〕[三]に成りまして、身〔み〕を隠したまひき[四]。(角川文庫、武田祐吉訳注)
(注)一 中心、中央の思想の神格表現。空間の表示であるから活動を伝えない。 二 以上二神、生成の思想の神格表現。事物の存在を「生む」ことによって説明する日本神話にあって原動力である。「たかみ」は高大、「かむ」は神秘神聖の意の形容語。この二神の活動は、多く伝えられる。 三 対立でない存在。  四 天地のあいだに溶合した。

 二つの版とも、注からして私にはよくわからないのだが、「神格化」「神格表現」の「神格」というのは、『広辞苑』によると「神の格式。神としての資格。」という意味で、「神みたいなもの」というような比喩的な意味よりももっと強く、つまりは「神である」と言っているということらしい。
 角川版では「高天の原」についての注はないが、岩波版の「天上界」という意味で自明だと考えたから注を省略したのだろう。
 日本人として、子どもの頃から、「日本神話は高天が原という天空のどこかの世界に神々が寄り集うところからはじまる」というその程度のことは何となく聞き知っていたが、それ以上の意味を教わった記憶はない。
 一方『旧約聖書』では、
 「はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水の面をおおっていた。
神は「光あれ」と言われた。すると光があった。」(日本聖書協会)
この冒頭を指して、天地創造からはじまるから根源的であるとか能動的であるとか、神の言葉とはロゴスのことであり(これは同語反復か?)人間が神から与えられた理性によって世界を認識することがはじまるのだということがここに書かれている、というようなことをこちらも日本神話同様何となく聞き知ることになる。聖書の世界と比べて日本神話ではあらかじめ天地ができていて、つまり日本人は世界の創造までは考えなかった、という風にやっぱり何となく聞き知ってきて、こっちも漫然と「そういうことか」と思っていたのだが。
 大津栄一郎の読み方はまったく違う。まず読み下し文を引用するが、ただしこれは他と違いはない。

天地〔あめつち〕の初発〔はじめ〕の時に、高天〔たかま〕の原〔はら〕に成れる神の名〔みな〕は、天之御中主神〔あめのみなかぬしのかみ〕。次に高御産巣日神〔たかみむすひのかみ〕。次に神産巣日神〔かみむすひのかみ〕。この三柱〔みはしら〕の神は、ともに独〔ひと〕り神となりまして、身を隠された。

 大津版に注の数字がふられていないのは、そんな量では足りないからだ。丸々引用したいのは山々だが、長くなるので、肝心のところだけ書くことにする。
 まず「高天の原」だが、「神々が住む天上の世界」というような思考が勝った意味は、この説話が生まれたときにはなかっただろうと推論する。少し時代がくだって阿部仲麻呂が「天の原ふりさけみれば……」と歌ったように、「天の原」とは空のことであり、それに「高」がついているのだから「高天の原」とは「高い空」という程度の意味であろう。
 そこに神が「成られる」わけだが、「成る」とは「なかったものが在るようになる」ことである。それゆえ、ここでは、空に「忽然と現れる」ということになる。
 説明の都合上、おわりの「独り神となりまして、身を隠された」にいったん飛ぶが、「独り神」を『古事記』にたくさん出てくる対偶者(イザナギ、イザナミなど)を持たない神と解釈するだけでは十分な意味をなさない。
 「独り神」とは後継者がいない「このときだけ姿を現された神」ということなのではないか。そして、その神は、すぐ「身を隠された」。
「高天の原に成られて……独り神となりまして……身を隠された」とは、
「空の高みにふと神が見えたような気がした。」
 ということを言っているのではないか。
 それは、今日的な言葉で言えば、〝心のひらめき〟〝観念の誕生〟を伝えた表現ということになる。つまりこれは、我々の先祖が心を得た瞬間を伝える説話なのである。
 では、我々の先祖がはじめて得た観念とはどういうものであったのか。その中身が、天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神の三神である。
 天之御中主神〔あめのみなかぬしのかみ〕とは「空のまん中の大人〔うし〕」であり、
 「頭上の、なにもない、広がりは、空である。」
 ということを認識したということであろう。つまり、我々の先祖が空という観念を得たことをここで伝えている。
 つぎの、高御産巣日神〔たかみむすひのかみ〕と神産巣日神〔かみむすひのかみ〕という二神は何か? 「産巣日」は「結ぶ」であり、「実を結ぶ」のように「産む」の意味もある。「高御」と「神」はともに畏敬を表した語であるが、太安萬侶が『古事記』を編纂した時代にはすでに違いが分からなくなっていた。
 「高み」は空間的に高いところ、「神」はもともと「上」であっただろうから時間的に高いところ、遠いところを指すのではないか。とすれば前者は「高い処に住む結びの神」、後者は「遠い昔の結びの神」ということになるのだが……、しかし空間と時間を明確に区別することは上代の人たちには難しかったから、この二神の違いは忘れられてしまった。
 いずれにせよ、高御産巣日神と神産巣日神の二神の伝承は、我々の先祖が、人は、そしておそらく動物も、「産まれることによって在る」ことを知ったということ、あるいは、出産の観念を得たことを伝える説話であろう。
 このようにして著者は、つづく二神、「宇摩志阿斯訶備比古遅神〔うましあしかびひこぢのかみ〕」は、「植物は発芽し成長する」という認識、あるいは成長という観念であり、「天之常立神〔あめのとこたちのかみ〕」は「天の床は確固と立っていて、天が落ちてくることはない」という確信であると推論する。そして読み下し文はこうつづく。

この二柱〔ふたはしら〕の神もまた、独り神となりまして、身を隠された。上〔かみ〕の件〔くだり〕の五柱〔いつはしら〕の神は、別天〔ことあま〕つ神〔かみ〕である。

 「別天つ神」とは何か。それは「異なる天つ神」「別の類の天つ神」であり、一度だけ姿を現して、その後二度と姿を現さなかった点が共通している(高御産巣日神と神産巣日神は、後の高天の原での本話にも登場するが、そのときには子孫があるので、ここでの二神とは違う、現〔うつ〕し世の神である)。
 つまり、ここに書かれた五神は現し世の神ではない神であり、観念としてだけ存在している神のことだ――というか、観念そのもののことだ。それが「別天つ神」と呼ばれた所以なのである。

 以上、読んでもらえばわかるとおり、ここに書いた文章は基本的には原著の書き写しで、省略しても文意を損ねないと思われるところだけ省略した。
 頭上の何もない空間を、ただ「何もない」のではなくて、「それは空なのだ」「空があるのだ」と認識したのだ、という読みは、『旧約聖書』の「光あれ」という言葉の力にも、数字の0の発見にも匹敵するものすごい発見ではないか。
 日常的思考様式では、「高天の原」をただ「天上の世界のこと」と逐語訳式置き換えをしてわかったつもりになってしまうが、それではそのときに人々の心の中で何が起こったのかということは何もわかっていない。こういう風に洞察力をフル稼働させながら読むことによって、著者大津栄一郎は『古事記』として編纂された伝承をもともと作った遠い遠い昔に生きていた人の心に届いた!
 しかし、読者も私のこの文章から離れて二、三時間経つか一日経つかするとわかるだろうが、どういう推論過程によって何をこの著者が書いていたのか、こんなにも明らかだったはずのものがぼやけてしまっている。つまり、いままで知っていたはずの逐語訳式置き換えの解釈の方が安定していて、こちらの読み方はある意味不安定ということなのだが、こちらを読んで驚いたり感動したりした気持ちには揺るぎないものがある。

自我を語る言葉と戦争を語る言葉

 『三月の5日間』に戻ると、これはもともと芝居が先にあって、あとから同じ表題の小説が書かれたのだが、小説は芝居のノヴェライゼーションではない。ノヴェライゼーションではないが、芝居の雰囲気というか、この芝居をほかの芝居と全然違った芝居として芝居たらしめていた何かは、小説の中にきっちり移されていて、それがこの小説を他の小説と全然違った小説として小説たらしめている。
 私は岡田利規の小説を読む前にチェルフィッチュの芝居を見てしまったから、チェルフィッチュの芝居を見ていなくてもこの小説は小説として独立に楽しめるということを自分の経験がそうなっていないのだから自分の経験としては言うことができないけれど、きっと芝居を見ていない人にも小説は小説として独立に楽しめると思う。
 この小説について、私はまだ冒頭の一ページ分くらいを引用しただけだが、これから先の部分は引用しようと思っても長すぎるので引用するわけにはいかない。この小説は三人称小説としてはじまっているが、最初のブロックが終わると一人称の語りになる。で、その一人称は一人の人物に固定されていず、しばらくしゃべると次の人へと移っていく。で、そうしているうちにまた三人称になって情景が語られている、と思ったらそれはもしかしたら一人称の語りの一部なのかもしれない、というかたぶんそうなのだが、それが三人称として語られたものなのか、一人称の語りの一部として語られたものなのか、という区別を気にしても意味がないことで、小説とはそのようにして一人称の語りと三人称の語りを混在させても書けるということだ。
 作者岡田利規の中で、おそらくそのヒントは舞台の上で誰か一人の役者がしゃべっている光景から来たのだろう。舞台の上で役者がしゃべっているかぎり、一人称の語りから逃れることはできないけれど(ただしそれはまったく無理ではなくて、黒子のような進行役のようなナレーターのような役割の人間だったら、舞台上でしゃべってもその語りは一人称の語りでなく三人称の語りになりうる)、小説として紙の上に書かれた文字だけでは、一人称の語りなのか三人称の語りなのか決定させずに進めることができる。
 しかし思えば、同じ役者がしゃべるのでも進行役のような内容だったら三人称の語りと位置づけられうるというのも変な話で、私とか自我とかというものはもっとフレキシブルなものと考えうるということをこれは示唆しているのではないか。
 自我の一貫性というのは法的には責任能力ということになるのだろうが、ふだんは「私は小学校のとき鉄棒の逆上がりができなかった」式の言い訳として機能している方が多いのではないか。
 「私は分数の割り算ができなかった。」
 「私は動物園で写生したときに、檻の線を先に描いてしまったので中の動物をうまく描けなかった。」
 これらはどれもすごく似ている。一度聞けば絶対意味を取り違えようがないところが三つとも共通していて、しかしこれらの言葉自体にはそのじつ意味らしいものは何もなく、それを言った人の気持ちが何かがこちらに向かってべたっと貼りついてくるようなところが何より共通している。どれも固有の経験を装った了解可能なフィクションじみた経験であり、本当の固有の経験だったらもっとわかりにくいはずだ。
 自我というのはそういうもので、「私の中の私だけの領域はかけがえない」というその領域には基本的に同じことが書き並べられている。そうでなければコミュニケーションは成立しないわけで、「私は小学校のとき鉄棒の逆上がりができなかった」という言葉はコミュニケーションを求めている言葉でもある。しかしその言葉が求めるコミュニケーションはひじょうに安易なコミュニケーションだ。

 『三月の5日間』には、二〇〇三年の三月十九日の夜、イラクに対してアメリカが期限を切ったその期限まであと十何時間というときに、スーパーデラックスで催されたパフォーマンスのことが、そのパフォーマンスの直後に渋谷のラブホテルに行って、そこで五日間セックスしつづけた男と女によって語られるくだりがある。
 そのパフォーマンスではパフォーマンスを進めるパフォーマーだけでなく、会場にいる人も希望すればマイクに向かっていま自分が考えていることを何でもしゃべったりできるようになっていて、もうじき戦争がはじまるという状況から自然と戦争について思うところの発言が多くなっていったらしいのだが、そういうパフォーマンスに対する違和感が男と女によって語られ――しかし二人ともそのパフォーマンスのことは一生忘れないと思うと感じてもいるのだが――、その違和感のよってくるところは、「私は逆上がりができなかった」に対する不快感と同じかもしれない。
 戦争のこととなるとどうして私たちは似たりよったりのことしかしゃべれないのか。この小説(芝居も同じだが)の中の二人がイラク戦争開戦直前に渋谷のラブホテルに入って五日間セックスしつづけた理由の底にはそれがあると思う。
 もしこの小説が発表されたのが一九七〇年代までの政治の時代だったら、「この小説は結局、世界の別の場所で戦争している最中に、男と女が二人だけの閉じた世界でセックスしただけの話」というものすごく雑なまとめられ方をしてしまったかもしれない。政治の時代が過ぎ去った今ではそうはならなかったわけだが、文芸誌発表時に話題にならなかったということは、戦争とその周辺に対して、七〇年代から後、何か別の言い方が生まれたわけではないということを真剣に考えている人がいないということをあらわしているのではないか。
 ではセックスすることが反戦なのか? かつてジョン・レノンとオノ・ヨーコは反戦のために「ベッド・イン」というパフォーマンスをしたが、そのようなメッセージが意味を持たないのが今という時代だ。では五日間のセックスは反戦の祈りを込めたハンガー・ストライキのようなものだったのか? だからハンガー・ストライキだってメッセージなわけだし、公表しないでひとり黙々とハンガー・ストライキをやった人が現実にいたとしても、彼と彼女の二人は自分たちのセックスがアメリカとイラクに通じる何かがあるなどという幻想は持っていない。では自分たちの無力さを確認するためだった? それも違う。
 戦争について語られることが中心になったパフォーマンスの会場にいながら、何をどうしていいかわからないと感じていた男と女が、そのわからなさをしっかり自分の中に刻みつけるためにセックスをしつづけた。シャカやキリストも性欲には生涯悩まされた、というような性欲至上主義は最低だが、セックスがわりと特別なことであるということは確かで、はじめて出会った二人が段取りも経ずにするっとラブホテルまで行ってしまったのはこの二人にとっても確かに特別なことで、そんなことは生涯に一度しかないかもしれなくて、「自分そのものについての話は絶対にしないというようなことが、いつのまにか二人のあいだで何となくのルールのようなものとして諒解されていることの奇跡、みたいなことを感じていた。」
 戦争について、自分は何をどうしたらいいかわからないと思っている二人が、自分そのものについての話は絶対にしないように、どちらかが提案したわけでなく、いつのまにか、なんとなくのルールのようなものとして諒解されていた、ということは、この小説のメッセージとしても重要だ。ふたりは逆上がりができなかったとかそれに類した話はしなかったということだ。――小説を読み直してみると、パフォーマンスのはじめのあたりで発言したドレッドヘアの黒人は、十六歳のときに生まれてはじめて働いたという自分の経験をしゃべっている。二人のあいだに生まれた暗黙のルールは、戦争について、小説として、手探りの一歩を踏み出したと言えると思う。
 小説は作者の頭の中に去来することを文字にしていく作業だから、作者はどうとでも書ける。メッセージ性の強いもの、意味として読まれることを求める小説ほど、作中の人物の属性とか発言とかは、その意味に沿ってどうとでも作り変えることができる。意味として都合悪くなると判断したら、作者は作中人物が「愛しています」と言った言葉を「愛とか言ってる場合じゃない」に書き換えることができ、そう換えても、意味としては変わっても小説の全体としては変わらない。
 しかし『三月の5日間』の場合、ラブホテルで二人が自分のことについてしゃべるという選択肢は、小説の全体としてない、と確かに読者には感じられる。だからメッセージとしての価値がある。もっとも男の方は自分たちが五日間セックスしまくってラブホテルから出て日常に戻る頃にはイラクでの戦争も終わっているんじゃないかという甘い読みもしているわけで、五日間のセックスに戦争と対峙しうる深刻さがあるかといえば全然そうではないわけだけれど、私だって彼と同じようなものだし、たいていの人は同じようなもので、その後のイラクの泥沼化を予見できていた人もたしかに少なくはないだろうけれど、その人たちはどこか格闘技好きに似ていて戦争とかパワー・ポリティクスとかに取り憑かれているようにも見える。戦争に異議を唱えるためにその道を選ぶことが解決策になるとはとても思えないから、ラブホテルに行った彼も私もますます言葉が見つけられなくなる。

 本書に収録されている『三月の5日間』と『わたしの場所の複数』の登場人物は全員がフリーターらしい。
 『わたしの場所の複数』の語り手「わたし」は小説となったこの日一日バイトを休み、一方、夫の方は、前夜から朝六時まで深夜のファミレスの調理のバイトをして、そのあとファーストフードのベッカーズで仮眠したあと、十時か十一時から最近はじめたドラッグストアのバイトに行って、「たぶん終電やそれに近い電車」で帰ってくる。
 「わたし」の方はどうやら前の晩から休み休みだがずっとarmyofmeというハンドルネームで書かれたブログを読んでいて、そのarmyofmeさんはパソコン会社の電話サポートを派遣社員としてやっている。「わたし」はまたあのブログを読もうかなと思う。

 もしも今キーボードの一つに触れて、画面を立ち上がらせたら、そのラップトップの中に今もまだキャッシュされているあのブログの、客にねちねちと言われたクレームをarmyofmeさんが延々と書き付けた言葉は、一面の漆黒の夜空の空間に、大映しになって、しかもそれは、なぜかどこまでもひとりでにスクロールされていって、今あなた、僕のことをどうせ、うざったいクレーマーだと思っていますよね(もちろん思ってますが)、でもね、そんなのまったく納得いかないですよ、ほんとうにただの言いがかりみたいなこと言ってくる人も、まあ中にはいるんでしょうけれど、そういうのと同じところに分類されたんじゃ、釈然としないですよ、そんなことないですか? そういう人と僕は、同じですか? 申し込んで一ヵ月しても開通しないってのは、そのくらいのことは、逆に聞きますけど、普通のことなんですか?(ごめんなさい、さすがに普通じゃないですけど)広告の謳い文句とのこの違いは、そちらの業界的な常識からしたら、普通のことですか? そんな常識こっちは全然わからないですけど、どう説明してくれるんですか? そのくらい待つのはむしろ当たり前だよ、っていう感じですか? お前ひと月くらい待ってるだけでぎゃーぎゃー言ってるんじゃねえよ、っていう感じですか? ……でもこのケースは、要するにどう見ても明らかに、そちらの不手際なわけですよね? それなのにすごくおかしいんじゃないんですかねーこの対応は、って思うのは、たとえばこの電話にしたってそうですよね?  この電話、電話代をね、客である僕のほう今、これ刻一刻と支払っているわけですけど、客が支払う仕組みになっているということ自体が、そもそもどうかしていると思いませんか? なんていうんでしたっけこれ、ナビダイヤルでしたっけ、普通の電話よりはちょっと安いみたいですけど、とは言えまるきり有料なわけですよね、フリーダイヤルじゃないですよね、というのはつまりそちらの態度として、客がお金を払って電話するのが当然と思っているということですよね、そ れがでもそもそも筋としておかしいと思うんですけど、そんなことはないですか?(ぶっちゃけた話すると、わたしもそう思います)かけ直すのが社会の常識で すよね、違いますか? フリーダイヤルの番号を作らないことに対して、クレームは来ませんか? そんなけちくさいこと言うのは僕だけですか? でも筋とし て、こういうのは無料なのが普通に考えて当然ですよね? 違いますか? どうして僕は自分で高い電話代払ってこんな文句を今、言っていなきゃいけないんで すか?(じゃあ、切れよ!)電話代もったいないから自分で払うのばからしいから、今から電話番号お教えしますから、そっちからこっちにかけ直してきてくだ さいよ、って言ったらかけてきてくれます? かけないですよね?
 (途中省略)
これはお願いですよ、ちょっとここだけの話押して、あなたの本心を聞かせてくださいよ、立場どうこうからこの際ちょっとだけ離れて、純粋にあなた自身の、一人の人間としての、あなたの意見を聞きたいんですよ、教えてくださいよ、どう思いますか? 僕の言ってることは、僕の怒りは、おかしいですか? 正当ではないですか? おかしいことを僕、さっきから言ってますか?
 わたしは、そんなふうに泣き落としみたいな感じで言われてしまって、ついつい情に脆いところがあったりするので、いえ、そんなことはないです、と言ってしまって、そのことに、言った途端に後悔したけれど、もう遅かった。少し沈黙した後で、うん、いやあ、そうですよね、そんなことはないですよね、と言った客は、明らかに気分を良くしていたわけだけれど、いうまでもなく、わたしと客との通話は、マネージャーやグループリーダーたちにモニタリングされている。
 このコールセンターには、総勢で八十人近いオペレーターが揃えられていて、各人には、簡単な事務机と、その上に乗っかった、ヘッドセットの実装されている、データベースとも連携した専用のシステムが入った端末一式とがあてがわれている。一列あたりにつき十二個の机が、横並びにくっついていて、フロアにはそれが全部で八列あった。どの机にも三面ともに、パーテーションが取り付けてある。リーダーといっても、彼らもコールセンターの経験を一年以上積んだオペレーターの中から選ばれているだけのフリーターであって、別に正社員ではないのだけど、彼らの端末には、オペレーターたちの現在の通話状況が一覧できる管理ソフトが入っていて、その画面には、このフロアの座席の配列と同じレイアウトで並んだセルが表示されている。セルはそれぞれに該当するオペレーターの現在の状況が、今通話中なのか、通話後のログを書き込んでいるところなのか、待ち受け中なのか、色の違いで表示されている。一人の客との通話が二十分以上続くと、システムが自動的にアラート状態とそれを認識して、セルが赤くなる。するとそれまでオペレーターをランダムにピックアップしてモニタリングしていたリーダーたちは、モニタリングの対象をそこに絞るようになる。だからわたしのこのときのセルは、当然赤くなっていて、わたしの通話は、何人ものリーダーたちにまる聞こえになっていた。
 (途中省略)
書き終えてアップしても、それでわたしの内蔵の、締め付けられているような感じが消えていくわけでは、別になかった。むしろ書くことによってヘンな興奮のしかたをしてしまっているぶん、今のほうがよけい、今にも体が震え出してきそうな気持ち悪さ、これをどうすればいいかわからない度合いは上がって、わたしの事態はひどいことになっている。書くことで単純にすっきりすることも、もちろんある。でも、却って気持ち悪さが助長されてしまうときも、ときどきあった。この強い気持ち悪さが、体全体に薄く状在している感じのものなのか、頭の中の、ごく局部的なところで抱え込まれているものなのか、それが自分でもよくわからなくて、どっちかのような気がしても、すぐまた次の瞬間には、それとは別のほうのように感じた。……と、ここでスクロールバーのようやく下端に行き着いて、動きが止まる。そしてすかさず、画面はそれまでとまったく違うレイアウトをした、別のブログに切り替わる。(『わたしの場所の複数』119~128ページ)

 この連載の第二期(『小説の誕生』第5章)で私は自分のパソコンが壊れた話を書いた。私もこのクレーマーと似たような状況に陥ったわけで、ここを読んでいると嫌な気持ちがよみがえってくるのだが、それはともかく、クレーマー当人であった私はひじょうに甘いことを書いてしまったと思う(といっても、作者岡田利規もまたクレーマー当人を経験したかどうかはわからないのだが)。
 ブログを書いているarmyofmeさんの電話対応はすべてモニタリング=監視されているのだが、監視しているリーダーたちも、「コールセンターの経験を一年以上積んだオペレーターの中から選ばれているだけのフリーターであって、別に正社員ではない」。
 自分の話を書いたとき、私はつい――しかし、この「つい」は致命的だ――クレーマー対オペレーターの一対一の構図を書いてしまったのだが、この小説は徹底的に多対多の構図になっていて、意志らしきものはどこにもない。
 確かにクレーマーは自分の気持ちを訴えつづけてはいるが、それがオペレーターたちにとっては大勢の一人であることを十分に自覚しているし、「あなたの本心を聞かせてくださいよ」と泣き落としみたいに言われて、つい言ってしまった「いえ、そんなことはないです」というarmyofmeさんの言葉にしても、状況に誘導されただけで〝意志〟と呼べるほどのものではない。
 多くの読者はすでに「カフカ的だなあ」と感じているだろう。私はカフカのカフカたる所以は責任や意志決定の所在がどこにあるかわからない(または、どこにもないのかもしれない)機構をいくつかの論理の組み合わせによって作り出したことであって機構それ自体の方ではなく、機構それ自体の方はカフカでなくいわゆる「カフカ的」ということだと思っているが、この部分はカフカ的な中でも最も良質なものであり、
 「『城』では城にたどり着けない人間がKひとりだから、ある意味、こっちの方がすごいな。」
と思ったあとで、
 「もしかしたら城にたどり着けないでいる人間はKひとりじゃないのかもしれない。」
 と考えが変わって、『城』像がぐらついた。というか、『城』の方もいっそう魅力を増した。
 それにはフリーターという存在が重要な役割を演じている。フリーターは機構を変えようという意志を持つことが許されない。意志を持つことが許されないのにもかかわらず、電話による対応という限定された場面であるとはいえ、全面的な責任を負わされ、「いまお客様にお答え申し上げている私の言葉が、弊社としての公式の答えとご理解ください」ということになる(少なくとも私はそう言われた)。しかし機構の変更が視野に入っていない、社としての公式の答えなどありえない。
 などと、この話になると私はまたまた興奮してしまいそうだが、とにかく、岡田利規の小説は二つとも、どっぷり現在に浸っている中で容赦ないことが書かれている。