〈世界の何か〉
小説はふつう、テーマや作者の意図やねらいなどを書くものだと思われている。それに対して私はこの連載でずうっと“現前性”ということを強調してきた。現 前性とは見えるもの、聞こえるものなどおもに空間とか書き手の身体性にかかわることだけれど、あらかじめ想定されていたテーマ(があったとして、それ)か ら逸れて、考えることがどんどん勝手な方向に進んでいくこともまた現前性だ。
私は書き手の意図――ひいては人間が思考する意図――はたいしたことではないと思っている。小説があらかじめ想定された書き手の意図の範囲内でおさまって しまったら、小説は人間の思考の範囲の中でおさまってしまう。音楽は楽器を使う。楽器というのは、太鼓のように叩くものであったり、笛やラッパのように吹 くものであったり、バイオリンのように弦をこすって鳴らすものであったりするわけで、楽器は楽器以前の音の出る物体を出自として持っているから、起源から して世界につながっている。楽器を奏でる人間は、<世界の中で鳴り響いている音>ないし<音が鳴りやまない世界>の一画に間借りして、音楽という秩序のあ るものを鳴らしているだけのようなものだとも言える。それにまた、楽器奏者がどれだけテクニックがあっても、ストラディバリウスのような楽器の音そのもの が持つ魅力をこえられなかったりもする。
「ストラディバリウスのような楽器の製作者もまた人間なのだから、音楽は人間によって作られるのだ」という反論は浅薄な考えで、製作者は楽器の材料となる 木や皮の特色をこえてそれ以上の音を作り出せない。
私たちはすべてがフラットになりつつある環境の中に生きているから、世界に凸凹があったり、思いがけないところに亀裂が入っていたりすることをつい忘れて しまうのだが、絵の具の色も布の染色に使う色も焼き物の色も、すべてそれぞれに、試行錯誤を経て自然の中から採取されてきたものであって、赤を作り出せた からといって同じ手間と材料で青が作り出せるわけではない。だから「カドミウム・レッド」や「コバルト・ブルー」のように、はっきりとその色の材料(起 源)が名前に刻み込まれている絵の具があったりするわけで、ここで使われている「カドミウム」「コバルト」という語は、「カドミウムから作られた」「コバ ルトから作られた」という意味であって、「カドミウムのような」「コバルトのような」という、表面的(?)な形容詞ではない。
印刷に使うインクだって赤と黒は同じ成分ではないから、長い時間陽にあたっていると赤は消えて黒は残る。私は四色ボールペンをいつも持ち歩いているが、ト ンボ社の緑色は半日も書かずにいるとすぐには出なくなっていて、紙の余白あたりでカラ書き(というのか)して、アタマのボールを刺激しないとインクが出な い。黒・赤・青は間を置いてもすぐに書けるのに緑だけがいつもそうなる。最近はそれがうっとうしいのでトンボの四色ボールペンはやめてパイロットにしたが (こっちはいつもスラスラ書ける)、トンボの緑をカラ書きしているとき、いつも、「ああ、ボールペンの色もまたフラット(一様)じゃないんだな。」
と思ったものだ。
音楽と同じように絵画も世界の中にある色の一画に間借りしているようなもので、色そのものの力をこえて絵を描くというのは考えにくい。
「間借りしている」という表現にはネガティヴな響きがあるが、つまり私が言いたいのは、人間の思考の範囲におさまらずに世界につながっているということ だ。
私は絵や彫刻よりもずっと強く音楽に反応するタイプで、音楽を考える方が自分の中でイメージを作ったり記憶を喚び起こしたりしやすいから音楽の方で考える ことにするが、音楽を聞いていると<世界の何か>が開示されるように感じられるときがある。「そんなことは幻想だ」と言うのなら、「一生こういう気持ちで いられたらどんなにいいだろう」というような状態といってもいいし、「考えたり何かをしたりするための根本の力がいまこの音楽から流れ込んでくる」といっ てもいいが、言葉による表現はともかくとして、そのときの気持ちは特別なものだ。それはやっぱり、世界の何かに触れているのだ。
それが幻想だとしたら、その<世界の何かなるもの>が言葉で言えないものだから、言葉中心の考え方で測ったときに「幻想」になってしまうのではないか。
昨年(二〇〇五年)の十月末のある日、私は友人と二人で吉祥寺の井の頭公園に行って、池のまわりを囲っている手すりに腰掛けて、池を眺めながら三時間ぐら いビールを飲んであれこれあれこれしゃべった。
昨年の十月は例年になく雨が多い一ヵ月で、その日は久しぶりによく晴れたことだけでうれしくなってしまうような感じだった。井の頭公園の池というのは、 ひょうたん型とまではいかないだろうがとにかく正円でなく長円をしていて、まわりを一周するのに十分ぐらいはかかる程度の大きさがあって、ボートに乗る人 も多い。
私たちがビールを飲みながらしゃべっているあいだ、太陽は前方左から右に移動していて、ある瞬間に気がつくと池一面が太陽の反射で金色に輝いていた。
と思っていると、池はまた知らないうちに金色の輝きをうしなって、グレーとも茶ともつかない、どこにでもあるふつうの池の水の色にもどっている。太陽が雲 に隠れたのかと思って太陽を確認すると雲はなく、太陽は(たぶん)さっきと同じように照っている。
なんだったんだろうと思っていると、池はふたたび一面が金色に輝き、その光が池に浮かぶボートが作るさざ波による反射であることがわかった。
ボートにはふつうの手漕ぎのボートと、二人で乗って自転車のように漕ぐ白鳥型のボートの二種類があって、足漕ぎ式の白鳥型のボートは速力が速いために池を 横切っていくと池全面にさざ波が立って、太陽の光を金色に反射させていたのだった。
あの日は風もほとんどなかったためにボートが横切らないかぎり池の表面はべたーっと凪の状態で、水面は波立たないと光をそんな風には反射させないというこ とをそのときはじめて知った。
井の頭公園の池には水鳥もいっぱいいて、水鳥が水面を進んでいっても狭い範囲でさざ波は立つのだが、しかしおもしろいことに水鳥たちは白鳥型のボートを親 鳥と思っているのか、単独行動をしている水鳥はあまりいなくて白鳥型のボートが進むあとを何羽も何羽もついてまわっていて、ボートが繋留されているとその まわりにたまっている。
雨がつづいた十月の久しぶりの晴天の、暖かく穏やかで風がない日の午後に、池のほとりに腰掛けてビールを飲みながら、池一面が太陽の光で金色に輝くのを見 ていたら、
「このために、本を読んだりあれこれいろいろ考えたりしているんじゃないか。」
と思った。大げさに言うと「真理が与えられる」ということだ。人によっては「至福」と言うかもしれない。私はあのときに「至福」という言葉は考えなかった けれど、「これ以上何か望むものがあるか」という風には感じた。
私はそのとき、一緒にいた友人と、その二ヵ月くらい前からずうっと読みつづけているクロソウスキーのことといまは日本にいない友人Kのことをしゃべってい た。クロソウスキーのことも友人Kのこともその友人ほどしゃべれる相手はいなく、だから私はいちいち何かを説明したり補足したりする気づかいをいっさい感 じず、気兼ねなく、思う存分しゃべりつづけた。
いま日本にいない友人Kの方はその頃、アルジェリアか南フランスかコロンビアにいるはずだった(いや、コロンビアはそのあとだったか)。友人Kはセブ島の ジャングルがとりわけ好きで、しょっちゅうセブ島に行くがそのときにはセブ島にはいないはずだった。セブ島に行って、友人Kは半日ぼーっとジャングルが風 に揺れるのを見ているのだと九月半ばに会ったときに私に言ったばかりだった。
セブ島に行って、そのジャングルに私の気持ちが合ったら、私はいまこの井の頭公園で感じている気持ちのもっとずっと強いものを感じることができるのだろう と思った。
しかし十センチの大仏の置き物と高さ十メートルの大仏を見たときに生まれる感情がまったく違うように、どちらも気持ちに合ったとしても井の頭公園にこうし ているときとセブ島で感じるものは全然違うかもしれない。そういう大きさや形の違いが、実際に経験してみなければ、想像だけでは言い尽くせないということ を芸術について私はずうっと考えているわけで、結局セブ島で感じる気持ちというのを私は空欄のままにしておくことしかできないが、そんなことはともかく、 いまは井の頭公園にいて、「このために、本を読んだりあれこれいろいろ考えたりしているんじゃないか。」と私は感じていた。
が、その「このために、本を読んだりあれこれいろいろ考えたりしているんじゃないか。」の、「このため」というのはいったい何なのか。私はそれを言葉にす ることができない。<それ>は言葉ではあらわせない。それが音楽と同じものなのだ。絵に反応する人だったら絵を見てそういうことを感じるだろう。
と、こういう風にして私はいま、十月末の晴れた日の午後に井の頭公園で感じたことの輪郭を説明した。私があのときに感じた中身、そのときの気持ちの状態が 読者に共有されたとは思っていない。
その気持ちを読者の中に起こすのが小説だ。
「あれぇ?
あれ、あれ、あれぇ?
保坂さん前回、自分の書いているのは『すでに小説かもしれない』って、言ってませんでしたァ?
て、ことは、やっぱり『これは小説じゃない』って言ってることになりませんかァ?」
そういうことをいちいち厳密ぶって考えられても困るが、私が井の頭公園のことを書いてそのときに感じた中身を伝えようとするのと別に、読者の中に何か、こ れもまた言葉ではうまく言いあらわせない気持ちが起こっていたのではないか。私はこの連載を通じて、言葉を尽くして言葉によってはあらわせない何かを書こ うとしているのだから。
小説が現前性によって埋めつくされるとき、そこには人間であるところの作者の意図などという狭いものをこえたものが立ちあらわれるだろう。音楽が楽器とい う世界との回路によって世界を予感させるように、小説も世界を予感させるだろう。私がいま「予感」という言葉を使うのは、永遠にそれが言葉にならないと思 われるからだ。
肉体との直結
井の頭公園で私がああいう風に感じたとき、セブ島で友人Kが半日ぼーっとジャングルを見ているとき、あるいは音楽を聴いて世界を予感したと感じたとき、私 たちはいったい精神とか思考とかいったものを使っているだろうか。たしかに自分がそういう状態にあることを観察して自覚している自分がいて、その自分はふ つうの精神の使い方をしているのだろうから「没我の境地」というようなわけにはいかないけれど、池の表面が金色に反射するのを見る瞬間は精神は働いていな いのではないか。
あるいは、これはわかりにくく詭弁めいた説明になるのだが、私は横にいる友人にクロソウスキーや友人Kのことをしゃべりつづけたけれど、私はその三時間ほ ど全体として、意図を持たずただしゃべりたいことをしゃべっていたのだからふつうに頭を使っていたわけでもなかったのではないか。そして、池の光や空や池 のまわりの木や水鳥たちを見ながら、「いいなあ、いいなあ。」と感じている全体もまたふつうに頭を使っていたわけではなかったのではないか。
猫が陽だまりを見つけて眠り、太陽が動いて自分がそれまでいたところが日陰になったら一、ニメートル移動してまたそこで丸くなって眠る程度の頭の使い方を していただけで、あの時間の全体は犬や猫たちはしない人間だけしかしない頭の使い方をしていたわけではなかったのではないか。
いや、こういう言い方は多分に大げさで、次に自分が語ろうとすることの誘導であるという自覚もまたたしかに私は持ってはいるけれど、しかしそれでもやっぱ り、ああいう時間を「いいなあ」と感じるのは、あんまり頭を使わなくてすむからなのではないか。さっき「(クロソウスキーと友人Kのことを)気兼ねなく、 思う存分しゃべりつづけた」と書いたが、そういう風に感じていたことは重要で、私は気持ちを対人関係や対社会関係にわずらわされず、自分がいま感じている ことだけに向けることができていた。人間として頭を使うとは大半がそんなようなことでもあるのだし。
それでこれから私が「誘導」しようと思っていることは強引を承知で書くのだが、「このために、本を読んだりあれこれいろいろ考えたりしているんじゃない か。」の「このため」の「この」というのは、<肉体-精神>という二分法を立てたときの精神を介在させずに、肉体の方から直接にくるのではないか。
というようなことを考えたのは、「NHKアーカイブス」という日曜夜十一時台の番組で、一九七七年に放送された「永平寺」という永平寺の修行風景を映した 番組を見たからだ。永平寺にかぎらずキリスト教の修道院などでも、修行者は肉体を酷使させる。一日にしなければならないことが分刻みで決められていて、修 行以外のことを考えられないようにされた状況に修行者は置かれる。
これにちかい状態をまったく別の方法で実現させようとしているのが荒川修作の養老天命反転地なのではないかと永平寺の番組を見たあとに考えたのだ。養老天 命反転地はいまだ行ったことがないが、テレビで見るかぎりあの場所にいるととにかく肉体に大きな負荷がかけられつづける。荒川修作が考えている「死なない こと」というのは、間違いなく肉体と直結している。精神を小さく小さく追いつめていって、それがゼロになる瞬間か何かに死が乗りこえられるのではないか。
私が小説で現前性を強調するのは、脳の働きを精神でなく、視覚・聴覚・触覚などの肉体の機能で埋めつくすことを夢見ているからなのではないか。
「なのではないか」などと他人事みたいだが、現前性で埋めつくされた小説にはいまのところ出合ったことがないのだから、自分の考えていることといえども他 人の考えを予想するようにしか言えない。
こんな言い方は無責任のようだが、しかし、
「やりっぱなしで無責任のように見えるが、責任なしには一歩も進めるものではないでしょう。」
これは先月号に掲載されている小島信夫の『残光』に書かれている言葉だ。
「往来で大声で訴えなくとも、たとえば声を出さなくとも、心の中では、訴えたい気持があったことは事実である。その気持はかくしていても静かに訴えていた ことはある。」
これもまた『残光』に書かれている言葉だ。小島信夫という人はなんと奇妙で魅力ある言い方をするんだろう!
一方、同じ『残光』の中にある文でもこっちは「変」ということがもっと前面に出る。
「あなたの奥さまが群馬県の安中(あんなか)にある創始者、新島嚢(じょう)記念館を訪れ、ヘレン・ケラーがくるというので、埼玉から出かけて行き、同志 社でヘレン・ケラーと握手をしたときの、うれしさをきいて書いている文章なんかは、とてもいい。」
小説の流れの中では、こういうセンテンスはてきとうに意味に見切りをつけて通りすぎてしまうのかもしれないが、ひっかかると何を言っているんだかわからな くなる。
――こういう場所に気がついたら読者は笑った方がいい。小島信夫の小説は笑わずに、ただ真面目な顔で読んでいるとわけがわからなくなる。日本の近代文学で は、笑いと真面目がわかりやすく二つに分かれていたが、小島信夫では笑いがそのまま真面目さ・深刻さの表現になっていることがあるし、タチが悪いことにそ うなっていないこともある。その辺の呼吸が、三島由紀夫や太宰治や、さらには夏目漱石や谷崎潤一郎との決定的な違いで、小島信夫の小説は気持ちを前もって 一つの方向に限定していたら読めない(だからなまじっかな評論家はみんな小島作品を前にしてつまずく)。しかし「何でもアリ」という覚悟さえ決めておけば ――しかし「何でもアリ」という覚悟とはどういう覚悟だろうか。いや、これこそを“覚悟”と呼ぶのか――、こんなにスリリングで楽しくて、しかし同時に実 人生と同じだけの苦痛も感じさせられる小説はない。
引用したこのセンテンスの話にもどると、ここを妻に読んで聞かせると、しかし妻は、「耳で聞くとわかる。」
と言うのだった。
「耳で聞くとわかる」とは、人がしゃべるのを耳で聞いてわかるときのようにわかればいいというつもりで書いている、ということなのではないか。
「しゃべるように書く」のとは違う。しゃべるように書かれた文章であっても、読む側はあくまでも書かれた文章として目で読んでいるのだから、一見ひじょう にあいまいに書いているようでも目で読む生理に則って書いているところは、目で読まなければ理解することができない論理的な文章と基本的にかわらない。
しかし「耳で聞くとわかる」「人がしゃべるのを耳で聞いてわかるときのようにわかる」というのは、並べた項目が気持ちで伝わるようなことだ。
奥さんがいて、新島嚢の記念館が安中にあって、新島嚢は同志社の創始者で、ヘレン・ケラーが同志社に来たことがあって、奥さんがヘレン・ケラーに会いに埼 玉から出かけて行って握手した、ということが、ゴチャゴチャと整理されないまま団子になってラグビーのスクラムトライのように聞く人に伝わるというのが、 耳で聞いているときの理解の仕方で、場合によっては項目が一つか二つ抜けてもかまわない。次のセンテンスもそうだ。
「二月末だったか、もう少し前だったかに、畠中さんが脳梗塞になって今は歩くことはできるようになった十八年めのジョンを連れて、私たち夫婦に、何度、そ の犬が歩くことができなかったとき、車椅子に乗せて、外へ連れて行ったり部屋の中を移動させたりしたか語った。」
脳梗塞になったのは犬なのか?畠中さんでなくて、きっと犬の方なのだろう。しかしいまの獣医学はそんなことまでわかるくらい進歩してるのか? この私だっ てはじめて知った!
書かれた文章として目で読むとき、私たちは必要以上に、時間の前後関係やら因果関係やらを気にしているのかもしれない。文章なんて人の話を耳で聞く程度に 理解できていればいいのかもしれない。
もっとも、そんなこと「やろう」と思って急にやれることではないが、細部に厳密になって読んでいるその時間の中では正確に理解している気になっても、数ヵ 月とか経ったときに全体を忘れてしまっていたら元も子もなく、実際たいていの人はそういう風にして、読んだものをどんどん忘れていっている。いまはあまり 関係ないことだが「細部に厳密になって読んでいるその時間の中では正確に理解している」というのは、怪奇小説の伝統的な手法であって、読者は視界が制限さ れたカメラで室内のこまごましたところを映す映画を見るようにして(ただし本当は逆で、怪奇映画が怪奇小説の文体をカメラにしたらそうなったのだが)、全 体の見通しを遮断されたまま細部の正確さばかりに引きずり回されることになる。
次に引用するのは、ニーチェ『華やぐ知慧』の一節だが、ここでニーチェは私たちが陥りがちな、厳密さや論理性に対して「待った」をかける。
論理的なものの由来――どういうところから人間の頭脳のなかに論理が生じたのか? たしかに、非論理的なものからであり、そうしたものの領域はもともと途 方もなく広大なものだったに相違ない。しかしわれわれが現在行なっている論理的な推論とは違った推論をしていた無数の存在は滅び去った。にもかかわらずそ のほうが、より真であったかもしれない! たとえば「等しきもの」をあまり見出すことのできなかった者――食物に関し、あるいは敵対する動物に関して、 ――つまりあまりにもゆっくり演繹し、演繹においてあまりにも慎重であった者は、およそ類似したものに出会いしだい即座に等しいものと推定した者よりも、 生存を続ける公算が小であった。{しかし類似したものを等しいものとして取り扱う優勢的な傾向、すなわち非論理的な傾向――なぜなら本来からいって等しい ものは断じて存在しないから――が、はじめて論理学の一切の基礎をつくったのだ。}同様に、厳密な意味ではなんら現実と照応しないけれども、論理学的に とっては不可欠である実体(ズプスタンツ)の概念が成立するためには、長いこと事物における変化が見られないということ、感じられないということが必要で あった。精密に物を見ない者は、一切を「変化の流れ」のなかに見るものに対して優位を占めた。本来からいって、推論におけるすべての高度の慎重さ、すべて の懐疑的な傾向は、すでに生に対する大きな危険である。もし判断を中止するよりもむしろ肯定し、待つよりもむしろ誤り犯して作為し、否定するよりもむしろ 同意し、公正を期するよりもむしろ断定するといった反対の傾向が異常に強く養成されなかったならば、すでに生きているものはなくなっているであろう。{わ れわれの現代の頭脳における論理的な思想や推論は、それ自体一つ一つとしてみなすこぶる非論理的であり不当であるような衝動の経過と争闘に照応してい る。}われわれは通常ただ争闘の結果を経験するだけなのである。それほど速やかに、かつひそかに、いまやこの太古以来のメカニズムがわれわれのなかで演じ られているのだ。(『華やぐ知慧』「第三書」一一一番 氷上英廣訳 白水社「ニーチェ全集」{ }原訳文・以下同)
毎回のことだが、私は毎月、すでにうろ憶えになりつつある先月書いたことをぼんやり思い返したり、「今月は何をどう書こうか……」と思ったりしながら、初 読の本とすでに読んだことのある本を数冊てきとうに拾い読みしたり通読したりする。そうしていると、「あれ?これって、小島信夫のことじゃないか。これを 書こう。」と思ったり、「このあいだ書いたことが、そのまんま書いてあるじゃんか。」と思ったりする。
論理的なものの非論理性
次に引用するのは同じ『華やぐ知慧』の一〇九番と一五五番だが、先月私が書いた「太古の人間」というイメージとか、人間の姿をした思考だとか、神を作り出 したことによって自分の中にあったその能力をうしなったこととか因果律という思考法が機械を知っている人間の発想ではないかということなどなどが、かつて 一度ここを読んでいなければ私は考えなかったのではないかと思う。事実もう十年以上前になるかもしれないが、私はこの項を一度ならず読んでいる。
われわれは用心しよう――われわれは宇宙が生命体だなどと考えないようにしよう!どちらへそれは伸びていくというのか? 何からそれは自己の養分を取ると いうのか? どのようにしてそれは成長し、繁殖することができるのか? われわれは有機体とはどんなものか、だいたい承知している、――しかしわれわれ は、万有を有機体だと呼んでいるあの連中のやるように、われわれがただ地殻の上でのみ認めるきわめて派生的な、末期的な、稀有な、偶然のものを、本質的 な、普遍的な、永遠のものに、解釈しかえていいものだろうか? 私はそんなやりかたに嘔吐を催す。{われわれは、万有が一個の機械だと信じることすら、こ れを慎しもう。}たしかにそれは一つの目標に向かって構成されてはいない、われわれは「機械」という言葉で、あまりにも高い栄誉をそれに与えるわけだ。わ れわれはわれわれの近隣の星辰の循環運動のように整然たるものを、どこにもここにもあるものと予想しないようにしよう。銀河への一瞥がすでに、そこにはは るかに粗笨な、矛盾にみちた運動、ないしは無限に直線的な落下軌道をもった星辰といった類いがあるのではないか、という疑いを生ぜしめる。われわれが生存 しているこの星辰の秩序は一つの例外なのだ。この秩序と、そしてそれによって条件づけられているかなりの持続が、また例外中の例外、すなわち有機体の形成 ということを可能ならしめたのだ。宇宙の全体的性格はこれに反し、永遠にわたる混沌である。それも必然の欠如という意味の混沌ではなく、秩序・組織・形 式・美・知慧、その他すべてわれわれの審美的人間性の呼称であるものが欠如しているという意味での混沌である。われわれの理性から判断すれば、しくじった 賽の目は、はるかに常例であり、例外が秘かな目的であるのではない。そしてからくり全体は永遠にその調子(とうてい旋律といえるようなものではない)を繰 り返すのだ、――また究極においては「しくじった賽の目」という言葉さえもがすでに、そのなかに非難の意味をこめた擬人化である。とすれば、われわれはど うして万有を非難したり賞讃したりできよう!こうしたものに無情だとか、不条理だとか、あるいはその反対だとか、けちないいがかりをつけないようにしよ う!それは完全でもなければ、美しくもなく、高貴でもなく、またそうしたもののいずれになろうともしない。{それは人間を模倣する努力などはぜんぜんしな い!}それはわれわれの美的・道徳的判断のいかなるものの対象にも絶対にならない! それはまたなんらの自己保存の衝動も持たず、また一般になんらの衝動 も持たない。それはまたなんらの法則をも知らない。{われわれは、自然には法則があるといわないようにしよう。そこにはただ幾多の必然があるのみ。}命令 する何者もなく、従属する何者もなく、違反する何者もない。諸君にして、なんらの目的もないということを知るならば、諸君はまたなんらの偶然もないという ことを知る。なぜなら、ただ目的の世界と並んでのみ「偶然」という言葉は意味を持つからだ。われわれは死は生に対立しているといわないようにしよう。{生 きているものは、死んでいるものの一種にすぎず、しかもきわめて稀有な一種なのだ}、――われわれは世界が永遠に新しいものを創造するなどと考えないよう にしよう。永遠に持続的な実体のごときは存在しない。物質というのはエレア派の神と同様の誤謬である。しかしいつになったらわれわれはわれわれのこうした 用心や庇護をやめることになるだろう! いつになったらすべてのこうした神の影がわれわれをもはや暗くしなくなるだろう! いつになったらわれわれはまっ たく非神聖化された自然を持つだろう! {いつになったらわれわれはわれわれ人間を純粋な、新しく見出された、新しく救済された自然によって自然化し始め ることができるようになるだろう}! (『華やぐ知慧』「第三書」一〇九番)
われわれに欠けているもの――われわれは偉大な自然を愛しているのであり、それを発見したのだ。これは、われわれの頭脳のなかに、偉大な人間が欠落してい ることに起因する。ギリシア人はその反対だった。かれらの自然感情はわれわれのそれとは別なものだった。(『華やぐ知慧』「第三書」一五五番)