『仁義なきヤクザ映画史』でわかったのは、ヤクザは自分を映画に撮られたがっていて、ライバルが映画になると嫉妬して、抗争の引き鉄になったりする。
その歴史は、国定忠治、清水次郎長から始まる。 いや、映画以前の歌舞伎にまで遡る。 偉人にしろ、大悪党にしろ、大きな事を為すことと、フィクションとして生きること(その意識を持つこと)の関係は、とても深いものがある。
事件を書かない保坂和志はそれに無関心か?そんなことはない。 『プレーンソング』の島田の会社の社長は、自分の伝記を島田に書かせたがる。 私の小説は、「フィクションになるような生き方でなければ、フィクションにならないのか?」という問いが起点でもある。
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