今回はこれ以外にはなかった。他の四作は小説を書く前から問題があり、アプローチも小説を書くプロセス以前にできている。『ほんのこども』だけは、問題が何なのか、小説に先んじてあるわけではなく、問題はとても錯綜していて私は説明はできないが、とにかく、小説で考え、小説が考える。作者には小説に対する圧倒的な信頼がある。
他の委員は、作品の理解に手を焼いたみたいだが、私は理解しようとは思っていないので、楽しく読んだ。反対に、他の作品は退屈で読み通すのに苦労した。小説は自由の発現であるはずなのに、小説を取り巻く社会の基準(いわゆるPC等)の中で、それらに従順に書いている。それは私には隷従の態度と感じられる。
『ほんのこども』は、小説を自分の外にあるものとして書いていない。作者は小説を書きつつ、同時に小説に書かされている。小説に巻き込まれ、飲み込まれていく勇気。そうしてしまうと小説は収拾がつかなくなる。しかし、それこそが小説を書く怖さと喜びではないか。
具体的なことを言うと、あべくんが書いた三十三の散文と「かれ」の書く文章の関係が謎解き的に書かれないところに、この小説の特徴があらわれていると思う。この小説には真相や原因に向かう運動がなく、思考はひたすら前へ前へと向かう。出来事は過去に起こったことでも、書く運動においてはそのつど未知であることに作者が気づけば、思考のベクトルは前へ向くのだ。